もう一つの思考

            頭側と身体側の違い1

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頭側と身体側の見解の仕方

頭側の物と身体側の物に分ける。
頭側の場合、頭側の物ならば、1から100まで使える。でも、頭側が、身体側の物を使う場合、25から75までしか使えない。(数値は適当。ここに書いてある数値は全て大体である。)図にすると、正方形を縦に二つ置く。その二個をくっ付け、左上から右下に向かって線を引く。そして、正方形を一つ取り、二つに分けた、少ない体積の方が25から75の部分になる。
その上で、自分側の物は、縦側を使うが、もう片方は横側を使う。

身体側なら、身体側の物は、1から100の縦側を使え、頭側の物は、25から75までの横側が使える。

つまり、頭の使い方、身体の使い方、また、頭側の物の使い方、身体側の物の使い方は、頭側、身体側で、異なる。
だから、身体側の人に、頭側の頭の使い方を強要する事は出来ない。もちろん、頭側の人に、身体側の身体の使い方を強要する事も出来ない。
ただし、縦側と横側で共通している部分は、共用が出来る。

例えば、身体の使い方。
頭側の人なら、身体を使う時、均等に50%の力が入る。だから、手を動かすとき、そこに行くまでの部位にもある程度の力が入っている。
でも、身体側の人なら、身体は、部分的に100%の力が入る。手なら、手だけ。そこに行くまでの部位は、殆ど力が入っていない。力が入っていない部分と力を入れている部分を平均すると頭側と同じ50%になる。
これは、コップに水を入れ、運ぶと良く分かる。
頭側の人なら、身体にある程度、均等に力が入る為、コップの中の水は、揺れ難い。
でも、身体側の人は、力が入っている部分と入っていない部分がある為、コップの中の水は揺れ易い。それは、力が入っていない部分が揺れるからだ。
身体側の人が身体を使うとき、簡単に言うと、ムチの様な感じになっている。

なので、25から75までの横側しか使えない、頭側の人は、身体の使い方をそれほど勉強しなくても、適当に身体を使える。
ただし、身体側の人から見ると、身体の使い方がなっていない事は言うまでもない。簡単に言うと、ジョギング。気合いというか、気分でも走れる距離や速さなど違って来ると思う。身体側は、気持ちの部分が1から100な為、ふり幅が大きい、なので、調子を整えないと上手く走れない。なので、気持ちの調子を整えるのは普通。もちろん、気持ちだけでなく、身体側の物、全部、調子を整えた方が走り易い。

これは、頭側の人には、頭。で考えると良く分かると思う。
身体側の人が、文章を作ったとき、頭側と文章の作り方が違っている為、話をするときも、何を言っているのか理解し難いと思う。

頭側と身体側とでは、口と思いが反対になっている

頭側の人が身体側の人の喋りを聞くときは、自分の口で話すときと、思い、で話すときの違いを考えれば、すぐに理解できる。
口で話すときは、分かり易く国語で習った様に話すが、思いの中で話すときは、イメージの中で単調な言葉使いしかしないと思う。要は体感している事に、単調な言葉を入れる感じ。
だから、身体側の人は、思いの中では、ちゃんと話せているのに、口に出すときには、ちゃんと話せなくなっている。これは、発達障害者なら、納得する人が多いと思う。
つまり、身体側の人は、主語や動詞など、形作って話さない。もちろん、頭側の人にとっては、話し方がなっていないと思うと思う。
身体側の文章の作り方は、一番言いたいポイントを書き、次に、その補足を付ける。その次は、同じ様に、二番目に言いたい事その補足、三番目に言いたい事その補足、と続く。
この喋り方は、子供や、感極まった思いを話すときに似ていると思う。
感極まった思いは、思いを中心に話す為、こういう話し方になる。要は、頭側の人でも、身体側の方が強くなると、身体側が出る。もちろん、身体側の人でも、頭側が強ければ、頭側が出る。どうなれば、身体側が出るのか、頭側が出るのかは、後で書く。
子供もそうなるのは、生まれたときは、誰でも身体側から始まるからだと思うが、これは、ちょっとしたのページにいつか書く。

口と思いが反対という事は、受け取るときも反対になっている。だから、身体側の人は、口で言われた事を聞き取るのが苦手になっている。
これは、思いも口と同じ様に喋っていてくれれば聞き取れるが、口と思いが違うと、思いの方を中心に聞いている為、頭側が話した言葉が、何かは話している。という風にしか聞こえない。これは、気持ちと言っている事が違う。というのが一つ。もう一つは、違う事を考えながら、口で話される。例えば、次に話す文章の事を考えながら、書いてある文章をただ読んでいるだけ。こういう事をされると、聞き取り難い。

では、思いがどれだけ聞こえるものなのか。
それは、古い脳の方にどれだけ行っているか。古い脳を使えるレベル。相手との距離。で変わって来る。これは、今、分かっている事がその三つだけで、他にもあるかも知れない。この三つは、思いを聞くだけでなく、身体側を使う上で、使えるレベルが変わってくる三つでもある。

古い脳にどれだけ行っているか。というのは、大脳と古い脳で、自分が今、使用している位置。
大脳、古い脳、それぞれに0から100の数値を付ける。

大脳  0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 古い脳
大脳 100 90 80 70 60 50 40 30 20 10  0 古い脳

大脳が100なら古い脳は0。古い脳が100なら大脳は0。真ん中なら大脳、古い脳ともに50になる。今、使っている脳の位置が、古い脳100なら、大脳で分かる事は、一つも分からない。逆に、大脳の方が100なら、古い脳で分かる事は、一つも分からない。
初めにも言ったが、大脳と古い脳は、どちらか一つしか使えない。なので、例えば、頭側をずっと使っていて、頭側100になっている場合、次に身体側を使ったとき、表で言うと0というか10からになる。ただし、これは、才能、実力とは異なる為、使えるレベルの差では計れない。得意な物はある程度使えたり、不得意な物は、全く使えなかったりする。これは、頭側を使うときも同じ。
では、普段は、どういう風に使っているのか。それは、用途に沿って今、要る方の脳を使う。身体側の人なら、身体側で解けない等あれば、頭側を使うといった感じで、始めに考えたり使うのは、いつでも身体側。頭側で考える事などが簡単な事なら、ちょこっと頭側を使うだけで済むが、難しい事なら、無理やり、主を変えないといけない。要は、身体側80、頭側20の場合、頭側20の事でいけるなら、いつでも往復できる。でも、この状態で、頭側50の事を考えようと思うと、完全に頭側に主を置かないと、50までいかない。例えると、足。普段の使い方だと、筋肉が、左足80右足20しか付いていない。この状態で、右足20の力を使う事はいつでも可能である。でも、右足50の力を使おうと思うと、右足を鍛えないといけない。そのとき、いつもの様に、左足を軸にせず、右足を意識して軸を変える感じにすると思う。そういう感じ。
つまり、頭側と身体側に別れるのは、一人の人間の中でも言える事で、頭側で見た事、覚えた事は、頭側を使わないと出て来ない。もちろん、身体側で見た事、覚えた事も、身体側を使わないと出て来ない。
ただし、両方の物を意図して行き来する事は出来る。でも、それは共用の部分のみ。これは、互いに教える行為が必要になる。
この教えのときも、教え方は反対になっている。頭側が身体側に教えるときは、そんな事も分からんのか?など最後に一言、文句を付ける。身体側が頭側に教えるときは、普通にこうだよ。と教える。これが、一番覚え易い。身体側の物事の覚え方は、身体側のページにいつか書く。

古い脳を使えるレベル。というのは、単純に古い脳を鍛えた分。大脳で言うと、小学生レベルか、大学生レベルか、等の違い。ただし、古い脳は使っていないと、身体、の様に衰えていく。
相手との距離は、言うまでも無く、相手の身体と自分の身体との距離。

では、どうやって思いを聞くのか。声を聞くと思いが聞こえる。というのは分かっている。ただ、相手との距離が近いなら、声を出さなくても聞こえる可能性もある。
では、どこまでの思いが聞こえるものなのか。
それは、さっき挙げた三つで変わって来る。位置は古い脳60大脳40。古い脳で思いを聞けるレベルくらいは推移している。相手との距離がくっ付くくらい近い)なら、強い思いしかちゃんと聞こえない。この相手との距離が遠いなら、全然、聞こえない。この三つのレベルが全部、高いなら、おそらく、普通の会話の様に聞こえる。
おそらく、というのは、ちゃんと聞こえたのは、数回しかない。ただし、頭側の人の場合、さっき言った様に、思いは身体側の口で喋る程度なので、ちゃんとした文章ではない。でも、出来事を体感しているときなので、単調でも普通に解釈できる。聞こえた言葉を言うと、何が原因なのか分からない。とかだ。これが数回なのは、古い脳側では、今の世の中を暮らせない事にある。今の時代が頭側だけの世界な為、頭側と正反対では、当然、暮らし難い。ただ、完全に頭側にしなくても生きてはいける。
三つのレベルが低くても、ちゃんと聞こえないだけで、普段も身体側は相手の思いを聞いているとは思う。それは、時々、頭であれ?と思うほど、自分の考えとは違う行動を取る事があるからだ。
頭側と身体側は反対になっている。だけあって、思いでも、普通の会話の様に聞こえている。つまり、頭側の人が口で喋ったり聞いたりするのと、同じ感覚で、思ったり聞いたりしている。ただ、頭で理解するのではなく、身体で理解するので、聞いた事などは、行動に出る。
ただ、もう一つ聞き方があり、それは、相手の気持ちを自分の身体に入れ、それを自分の経験から解き、聞く。これは、頭側で言うと、事柄を理解し、相手が言う意図を理解する、のと同じ。もちろん、頭側と同じで、意図の受け取り間違いはある。身体側なら、自分の体験、経験した気持ちしか理解できない為、自分の経験から一番近い気持ちを選ぶ。ただ、そこから、考える事はするが、自分の経験に無い気持ちは分からない。これは、頭側も同じだと思う。自分の知らない事柄は、なかなか分からない。
相手の気持ちを自分の身体に入れる。というのは、相手が自分の気持ちを僕に教えているので、取り入れられるだけ。頭側で言うと、状況を話されているのと同じ。つまり、ポイントだけ話す。に、頭側なら事柄(状況)、身体側なら気持ち、を付加する事で理解できる。

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  • 頭側の喋り方と身体側の喋り方

    頭側の喋り方は説明しなくても分かると思う。国語で習った通りで、相手の頭に向かって話す。強いて言うなら、考えを纏めてから話す。
    身体側は、思った事を話す。基本は、頭側の思いと同じで、何を喋っても良い。ただ、話している矛先は、頭ではなく、身体である。なので、使い方は全然、違う。詳しい説明は後にするが、簡単に言うと、心理を突く。会話の仕方は、思った事を話し、相手が考える。考え終ったら、その相手の人が自分の思った事を話す。これを繰り返し、折り合いが付く。もしくは、正しい所で折り合いを付ける。子供の場合なら、親の言いなりになる。まあ、物事を教えて貰っている最中なので、自分で判断できない事が多い為そうなる。
    思った事を話しただけで、会話が成立するのか。一つは、話し合う。なので、身体側の人は、煩い。他には、感情、表現を使う。なので、怒っているのか、冗談なのか、真剣なのか分かり易い。ただし、頭側の人には、話の中の感情であるのにも拘らず、自分に対し感情を使われている、と勘違いされる事も多い。他には、相手が取る行動や、周りの状況から理解をする。ただ、身体側は、行動で話す事も出来る。というよりは、そちらが主。口で話す、話し合う等も行動になる。もちろん、頭側の国語と同じで、勉強をする必要はある。身体側は、身体での体験で勉強する。
    どういう風に行動で話すかと言うと、無視すれば、それは違う。と言っている。何回も見て来る、だと、何か訴えている。等、もっと細かく言うと、目を合わせず話す。自分で判断しなさい、と言っている。まあ、頭側の言葉と同じ様に、いっぱいあるし複雑ではある。この行動で話す。というのは、全て心理を突いている。

    頭側は、事柄で理解をする。身体側は、イメージで理解する

    頭側は、物事を事柄で理解する。簡単に言うと、紙の上だけの話を理解できる。その為、相手の気持ちを感じない。ただし、紙の上の気持ちは分かる。どういう事かと言うと、体験する前とした後では、感じる気持ちが違う事が多い。思っていたのと違う、という奴だ。頭側は、体験する前の気持ちしか分からない。逆に身体側は、体験した後の気持ちしか分からない。
    身体側は、物事を体感イメージで理解をする。要は、先程言った様に、体感した後の気持ちなど、実体験したイメージで理解する。その為、どれだけの事を理解できるかは、体験に掛かっている。頭側なら、頭で勉強するが、身体側は、身体で体験して勉強する。簡単に言うと、自分の過去の体験を思い浮かべたとき、ゾッとする。振るえる。等の体感できる気持ち、感情が出てくるときがあると思う。身体側は、それを使って理解をする。

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  • 頭側は文章。身体側は絵

    頭側は、文章から読み解く。身体側は、絵から読み解く。なので、頭側が国語の勉強をする様に、身体側も絵の勉強をしないといけない。
    例えば、エレベータ。開け閉めするボタンの中には、漢字ではなく、三角で表示してあるの物がある。これは、表示間違いである。なぜなら、その三角の印は、止まっている物に対し使う表示だからだ。エレベータの開け閉めするドアは、当然、動くもの。だから、動くものに止まっているものの表示を使用されても、それは、当然、意味が分からない。これは、突然、人が乗って来たとき、かなり困った経験がある。
    では、その三角印が、本当に間違いなのか。例えば、道路の十字路の図を描く。そして、始めの位置を歩く方向に、止まっている表示の三角印を書く。その次に、自分がどう進むか書く。すると、進むときに書く印は、殆どの人が、矢印を使うと思う。つまり、動いているものには、矢印を使う。なので、エレベータで使っている三角表示は、使用間違い。
    つまり、今の時代では、絵などの表記は、本来の使い方と間違って使われていても、気にされない。それは、絵に対し鈍い、頭側が何も考えずに使用しているからだ。何も考えず。というのは、言わなくても分かると思うが、頭側からすれば、確かに絵などの意図は分かり難いものではある。でも、どう間違っているかの説明を読めば、分からない事はないと思う。だけど、そんな簡単な事が、今の頭側には多分、理解すら出来ていない。
    もし、意図的に三角表示にした。としても、頭側で言うと、開ける閉める。の表示を、押す引く。と表示しているのと変わらない。身体側からしたら、ドアを開けるときは、押すイメージがある。逆にドアを閉めるときは、引くイメージがある。これは、手でエレベータのドアを動作すれば、なんとなく分かると思う。突然人が乗って来たとき、押す引くの表記だったら、頭側の人は、すぐに対応できるかどうか。おそらく、殆どの人が対応できないと思う。もちろん、その表記になっていると知っていたら、別ではある。では、僕は、三角の表示を知らなかったのか。それは、身体側では知らなかった、だから、困った事になったのだ。
    この説明で分かると思う。頭側の人が、身体側の人に対し、馬鹿にしている事が、実は難しい事だった、という事が。なにせ、間違った表記を何年もの間、使用しているのだから。これが、押す引く。の表記なら、指摘が相次ぐだろうから、必ず、直していると思う。
    つまり、頭側に分かり易い事は、身体側には、気に出来ない程、難しい事であり、身体側に分かり易い事は、頭側には、気に出来ない程、難しい事である。それは、トップページで言った様に、頭側と身体側は繋がっていなく、反対の思考になっているからだ。ただし、自分側の事で無かったとしても、勉強をすれば、今の様に分かる事が出来る事もある。これは、後で書く。

    頭側と身体側で、反対になっている所と、同じ所がある

    頭側と身体側とで、やり方、出来易い事、分かり易い事など、見えている部分での違いは反対になっているが、その範囲など見え難い部分は同じになっている。簡単に言うと、頭側で理系文系の様に区別できる事柄は反対になっている。発達障害でも、細かく区別していると思う、その区別の事。逆に、身体側で区別できる二つが、同じ範囲になっている。
    例を出すと、頭側が文章で理解できる範囲と、身体側が絵で理解できる範囲は同じ。例えば、家の鍵を閉める。これを絵に書き、その絵を見るだけで、同じ解釈に出来る。これが、文章で書ける事なら、全部、絵だけで解釈する事が出来る。文章と絵が反対。解釈できる物事の範囲が同じ。

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  • 頭側で身体側を反映する。身体側で頭側を反映する

    頭側と身体側は繋がっていなく別々になっているが、互いを組み入れる事は出来る。主と副という感じ。組み入れられるのは、このページの初めに言った、25から75の部分。
    頭側なら、頭での解釈時に、身体側の事も入れれば簡単に出来る。例えば、文章を書く。何でも良いが実体験した人にインタビューし体感した事を話して貰い、それを紙の上で理解する様に身体側の解釈を聞き、それと頭側の解釈を足し合わせば、身体側も反映できている事になる。このときに注意しなければいけないのは、自分の感情を入れてはいけない。頭側は、飽く迄、紙の上での話になる為、そこに自分の感情、気持ちを入れてしまうと、身体側の主の部分が入ってしまう為、その文章は紙の上から飛び出してしまう事になる。
    では、体感した話を聞くとき、頭では、自分の感情を入れていないのか。それは、入れていない。例えば、バンジージャンプを体験した人の話をテレビで聞く。すると、インタビューされている人は興奮して、喋っている。聞いている本人は、その興奮状態を見て、何か思う。
    頭で理解しているのは、この人の喋っている言葉やバンジージャンプをしたという事柄。興奮状態とそれに対し思った事は、身体で理解している。その為、頭での理解に、感情は一切入っていない。ここで注目して欲しいのは、自分の感情が出て来たのが、相手の興奮状態に対してである事。
    その前に、頭側の紙の上での感情と、体感の感情の違いが分かり難いと思う。
    例えば、このテレビの話を人にするとき、物凄く興奮していて、とにかく怖かった。と言っていた。これが、紙の上での感情。
    この話をするとき、人にもよるが、笑いながら話す人もいる。この笑いが体感の感情。
    テレビを見た人は、その人が、どれだけ興奮していたか、目で見た為知っている。が、物凄く興奮していた。という文面だけを見た人は、自分の頭にある、物凄く興奮していた、しか理解できていない。この場合、話をしている人の笑う感情からも理解はすると思う。だけど、これは、身体での話になる。時々、笑いながら話されていても、何の笑いか分からない事もあると思う。それは、頭で理解しているから、理解できない。でも、その笑顔に、なぜか、自分もつられて笑ってしまう。という事があると思う。それが、さっき注目して欲しいと言った、感情に対し、何か思う理解がある。
    つまり、理解できる所が、二つある。これが、頭側の理解と身体側の理解。
    それと、注目して欲しいと言った、感情を抱くとき、引き出しているのは、感情である。という事。もちろん、文面を見て、出る感情もある。例えば、自分が好きな物の新作が出た。ワクワクする気持ちが出て来ると思う。この気持ちが出たとき、イメージで想像してしまう。その為、実際を見たとき、落ち込むときがある。そのとき、自分のイメージと違うから。と言った事がある人も多いと思う。そのイメージでの想像、解釈を、身体側の人は、理解する為に主で使用している。つまり、文面を見て感情が出るのは、身体側の理解の仕方で理解をしている為である。
    身体側のコミュニケーションの取り方は、この二つ。でも、左右している場所は、身体側のみ。感情など身体側の事で、相手の身体側を左右する。と、文面を見て(口で言い)など頭側の事を強く使う事で、身体側を左右する。だから、身体側の人と話すと、心から、何かを思わされる。つまり、身体側の人は、身体に対し、心に対し、コミュニケーションを取っている。
    この、コミュニケーションの取り方が二つというのは、頭側も同じ。違うのは、左右している所が頭側になる。頭側の場合は、感情など身体側を強く使わないといけない。感情を強くしないと、話を聞かない等あると思う。そのとき、相手を落ち着かせ、冷静に話を聞き、頭で理解していると思う。使い方はそういう感じ。相手を冷静にさせるのは、自分が心から何か思わされているからである。
    この、もう片側の反映は、物事全般でしないといけない。それと、頭側、身体側で、取り入れ方、また、反映の仕方は違う。
    身体側の取り入れ方は、頭で分かる事を身体に植え付ける。行動を去勢する感じで、身体にその動きを慣れさす。簡単に言うと癖を付ける感じ。これは、自分の大脳から指示を出し、行動を抑制する事も出来る。このときは、意思が大事になる。意思がないと、この抑制は出来ない。その為、意思は自分で意識して変えないといけない。

    頭側の人が、身体側の人の意見を聞かずに、自分で身体側を理解するには、体験、体感をすれば良い。例を出すと、昔の人なら良くしていた。人の思いを知りたいなら、その人と同じ体験をし理解をする、などの行為。ただし、今は、プロファイリングなど、人の思いの傾向を調べた物があり、それを使用する為、わざわざ体験してまで人の思いを知る人は殆どいない。だけど、それは、使用期限がある。それは、身体側の物は、常に動くからだ。プロファイリングが有効な理由は、後で書く。
    身体側の人が、頭側を理解する場合、体験、体感を消す。例えば、少し笑顔を交えて、注意をされる。身体側の人なら、冗談で注意をする場合に、こういう話し方をする。これは、別に言う事を聞かなくても良い注意。だけど、頭側の人の場合、気を遣った注意の仕方になる。これは、言う事を聞かないといけない注意。つまり、この場合なら、少し笑顔を交えて。の部分を消せば、残るのは、注意される、になる。すると、注意されたときの態度を取れば良いと分かる。
    つまり、頭側を使っていても、身体側をある程度、理解できる。もちろん、身体側を使っていても、頭側をある程度、理解できる。でも、これ自体は、反映とは違う。反映は、頭側、または、身体側を使ったまま、もう片側を組み合わせるやり方。
    自分側でない反対側が、こうも分かり辛く、使い難いにも拘わらず、なぜ、もう片側も理解しようと思えば理解できるのか。それは、頭と身体は皆が持っているからだ。ただ、その才能値は別である。

    頭側は分野。身体側は才能値

    頭側は細かいの一つ。身体側は大まかと細か過ぎるの二つがある

    頭側は固定。身体側は変動

    頭側は確定に強い。身体側は不確定に強い

    頭側は1から。身体側は100から

    頭側は外。身体側は内

    頭側なら、文系理系など、分野事に細かく分けられる。発達障害でも、色々分けている。これは得意不得意の才能の事。
    身体側は、二つにしか分けない。この場合なら、頭側の才能値と、身体側の才能値。これは、頭側に50あったら、身体側には50ある。という物では無い。文系理系で言うと、文系が50なら、理系も50という訳では無いのと同じ。
    身体側の二つを計るには、相手の内側を見る。
    頭側なら、テストの点数だったり、体力測定など、一から決めた事で計る。頭側は、1からな為、部分的に確定して行ける。
    身体側の場合、頭を見る場合は、その使っている視野を見る。身体側の物を見る場合は、簡単に言うと、武道などと同じ見方。

    まずは、頭を見る場合。これは、相手の気持ちを貰うのと同じ要領で見る。相手の頭を貰い、自分の頭と照らし合わせ、見る。頭の場合は、箱がある。その箱に詰まっている容量の多さを見る。ただ、測定できる訳では無い為、武道と同じで、適当にしか分からない。もちろん、相手の頭を貰っているので、テストの点数を見る。とか、相手の実力を外に出して見る必要はない。ただ、馬鹿、普通、賢い、超賢い、程度しか分からない。でも、前に言った、身体側が使い易くなる三つ、それ次第では、もっと分かる様になるとは思う。
    身体側の物を見る場合、実際にやり合わないと分からない。要は、自分より上か下かを見るだけ。これは、頭側の事柄ごとに見る。要は、仕事が出来るのは、どっち。とか、勉強が出来るのは、どっち。という感じだ。これが大まか。細か過ぎるに分けると、本当に細かい。例えば、左から右に物を持って行く。50センチメートルなら、自分の方が速い。100mにしたら、相手の方が速い。等あれば、どこから別れるか、ミリメートルとか、計れる所まで計る。まあ、面倒くさい。もちろん、この次は、右から左に持って行くなら、となる。でも、この拘りが、身体側には要る。拘りについては、後で書く。

    固定と変動。頭側の物は固定で、1+1=2の様に、どう足掻いても答えが変わらない。手を抜こうが、答えは2のまま。身体側の物は、常に変わる。体力でも、常に変動している。実力でも、暫くやっていない事だと、実力は必ず落ちている。
    確定と不確定。頭側は、1+1=2の様に固定されている為、確定できるが、身体側は、常に変動する為、確定が出来ない。
    頭側は1から。身体側は100から。頭を使う。身体を使う。で考えると分かり易いが、頭は、算数で言うと、足し算引き算から、掛け算割り算という感じで、順序良く行ける。でも、身体は、足の指を鍛える、足首を鍛える、ふくらはぎ、ひざ、ふともも、という風には、鍛えない。いきなり、歩く、とか、走る、に行く。その後、弱い箇所、膝なら、膝を鍛えるという感じで、一に近い方に流れて行く。
    外と内。これは、見ている核の部分で、この違いが、全てを反対にしている。
    この四つと、細かい。大まかと細か過ぎる。は、後で、もうちょっと詳しく説明する。

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  • 頭側の人は知識を豊富にし、そこから考える事で、物事に強くなる。身体側の人は考えを豊富にし、得た事柄に考えを使って、物事に強くなる

    頭側は覚えられ易い。身体側は、忘れられ易い

    物事を覚えられる容量が豊富な頭側は、その得た知識を、考えで結びつける事により、物事をより分かって行く。
    考えが豊富に出来る身体側は、得たポイントを考えで膨らませる事により、物事をより分かって行く。身体側の人は、忘れ易いが、この豊富な考えがある為、忘れても問題ない。ただ、完全に忘れている為、一から考えないといけない所は、面倒くさい。覚えている途中から考えようとしても、上手く考えられない事が多い。それは、思考が100からになっているからだ。要は、今の考えは出来ても、昔の考えは書き換えられている為できない。でも、身体側は常に動く為、衰えない様に、いつでも、考えていた方が都合は良い。物忘れで言うと、他にも、物に情報を詰めておく事が出来る。例えば、コップ。コップを見たら、水を溜められる等の情報が頭では無く、コップに浮かぶ。要は、忘れた事を、物を見る事で引き出す感じ。忘れられ易い理由は、後で説明する。

    頭側の細かいと身体側の大まかと細か過ぎるを、簡単に例に出すと、大きな積み木と小さな積み木。この組み合わせ方が、三通りあり、三通り分の積み木があるとする。この積み木を組み合わせる前で比べて見る。
    頭側なら、大きな積み木と小さな積み木を組合せがし易い様に、組合せに要る分ずつ分ける。もしくは、組合せに要る分ずつ分けた後、始めに使う積み木から、取り易い様に上になる様にする。
    身体側は、それだけでは、納得しない。これは拘りもあるが、例えば、積み木を組み立てているときに、取る積み木を崩しても、組み立てている積み木が崩れない様に、崩れ落ちてくる場所をある程度、計算し置く。それは、組み立てている積み木が途中で崩れるとやる気を無くすからだ。また、その積み木を組み立てているとき、どこに取る積み木があったら、取り易く組み合わせ易いか模索する。要は、始めに使う積み木から上に置いておくだけでは、いざ、組合せするとき、積み木をくるくる回さないといけない、その手間を省くのと、くるくる回すと、組み合わせている積み木に落っことす可能性も十分にある。それを防ぐ為にも、準備するとき組み合わせる向きにして置いておく。もちろん、手をどの様にその積み木に当てるか、どう掴むか、力加減はどの指にどれくらいか、どのスピードで積み木を持って行き組み立てるか、その角度など、例を挙げるだけでもきりがない。もちろん、重力など、自然の力を駆使するのが普通。ただし、勉強は要る。
    こういう細か過ぎる考えを、実行に移せるレベルで、どれだけ出せるかが、身体側の見せどころである。では、どうしてそういう考えが出て来るか。それは、一つの意思の元、そういう考えが出てくる。今の場合なら、積み木を組み合わせるときを中心に考えている。なので、それ以外の事は、何一つ考えていない。こうなるのは、身体側が、内側に閉じこもる思考だからだ。
    頭側なら、積み木を組み立てるときに、考え、を使うものだと思っていると思うが、それだけだと、頭側の知識がある上での考えるレベルしか考える力が付かない。それだと、身体側は、知識を豊富に覚えられない為、当然、頭側と張り合えない。
    身体側の例を見て貰うと分かり易いが、気持ちや感情を使って、考える事をしている。組み立てている積み木を崩してしまい、やる気を無くす。それで、もうしない。とも出来るが、それだと、世の中では通用でしない。それなら、自分で考え、やる気の出るやり方にすれば良い。何をして、やる気を無くしたか。そこを基準に考えれば、やる気を無くす事なく、積み木を組み立てられる。つまり、考えは、気持ちを基準に考えると考える力が付く。それと、身体側の場合は、考え試すで一つの考えとなる。これは、後で説明する。

    頭側の能力の引き出し方。身体側の能力の引き出し方

    頭側は、頭に情報を詰め込む。
    身体側は、身体に情報を詰め込む。
    頭側は才能によるが、ある程度決まった、容量がすでにあり、そこに詰めるだけ。ただ、容量を増やす事は可能だと思う。
    身体側は、鍛える事で、容量を増やさないといけない。例えば、以前鍛えていた感じに身体を鍛えるまでは簡単に出来るが、それ以上に身体を鍛えようとすると、なかなか鍛えられない。という事がある。以前鍛えていた感じまで簡単に鍛えられるのは、容量の箱をそこまで伸ばしているから。ただ、容量の箱も伸び縮みはする。

    頭側の場合、何事でも、何も持たないまま1から進める。でも、身体側の場合は、100までの実力を付けた後、進むのが普通になる。
    頭側の場合、仕事でも、1から10あるとして、1から3をして貰うなら、1から3だけを教えれば良い。
    でも、身体側の場合、1から3をやって貰うにしても、1から10を教えないといけない。それは、考えが豊富な為、要らない事をしてしまう可能性があるからだ。頭側の人は、指示した事だけをして欲しいと思うが、そうはいかない理由が、身体側にはある。
    その前に、頭側は1から、身体側は100から、というのが本当なのか。
    例えば、数字。頭の方も、1の次は2と知らなければ、数えられないのではないか?要は、数字の名前を覚えてからでないと数えられない、という事。別に数字の名前を覚える必要は無い。例えば、リンゴ。幾つ要る?と聞き、リンゴの入った籠を差し出せば、欲しい分だけ、取れる。それは、数字の名前を知らなくても欲しい数を取れる。

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  • 何事でも、頭側と身体側は入り組んでいる

    詳しくは、後でも説明するが、今の例を、頭側と身体側に分けるなら、頭側は実物を数えて行く方で、身体側は数字の名前、になる。それは、観点が、1からか100からか、だったからだ。では、これを、覚える。という観点から見るとどうなるのか。数字の名前は頭側。絵として見られる実物を数える方は身体側になる。身体側の方は、覚えなくても数えられる。これは、頭側と身体側の影響で、身体側は、頭側と身体側の特徴。頭側は、どの事柄を観点にして分けるか。になる。
    ただ、頭側と身体側は、気に出来ない程の思考の壁がある為、説明された事は分かると思うが、頭側の思考を主で使っている人が、頭側、身体側に分けて行くのは、無理があるかも知れない。これは、身体側の思考を使っていれば、簡単に出来る。

    身体側の事ならば、何でも、大まかから、細か過ぎるに繋げる。例えば、努力。基本の実力を上げ、そこから、頭側が分ける事柄に使用していく。
    この場合、別に応用する必要は無い。それは、身体側の使用方法にある。
    例えば、予習と復習。身体側の予習と復習の仕方は、イメージを頭に思い浮かべ、自分が行った、または、見た事、を頭の中で映像で繰り返し流す。そして、何かあったポイントだけを抜き取り、そこをどうすれば良かったか、数通り考える。もしくは、しっくりくるまで考え、答えを出す。身体側の考えは、考え試すで一つなので、次のときに試す。そこで、引っ掛からなければ、良い考えが出た、になる。
    この、予習と復習は、何事にでも使える。しかも、やり方も同じ。だから、応用は要らない。ただ、事柄、内容が変わるだけ。先に言った、基本の実力は、予習と復習をする実力で、これは大まか。頭側が分ける事柄は、そのまま事柄で、細かい。内容が、細か過ぎるになる。
    なので、努力がどれだけ出来るかは、努力単体を鍛えたレベルによる。もちろん、細か過ぎる部分の内容で使った、他の大まかな部分も、他の事で使える。
    例えば、魚の焼き色。少し皮に焦げ目がついていた方が美味しく見える。これは、餅でも、焼肉でも、野菜でも、炊き込みご飯でも、パンでも、煮豆でも、甘栗の皮を剥いた中身を焼いても、美味しそうに見える。でも、これは、食べ物の中でも火を入れた食べ物限定。ただ、これを連想できる実力は別で要る。これをするには、多くの体験と考えのレベルを上げると良い。この場合だと、美味しそうに見える体感。色んな物を食べて来た経験。連想できるイメージ。この三つを鍛えていないと、この考えは出て来ない。これが、身体側が臨機応変な対応が出来難い理由でもある。それは、対応に必要な実力全てを鍛えておかないといけなく、一つでも欠けていれば、対応は出来難いからだ。

    頭と手足。頭側は、頭。身体側は、手足

    積み木の例でも分かると思うが、仕事で言うと、その通りのまま、身体側は、現場が合っている。
    ただし、今の誰でも出来る様に、頭で考えた現場では無い。身体側にしか出来ない現場。これが、先程言った、指示した事だけでは終わらせられない理由。
    本当は、頭と手足で、儲けの取り分を半々に分けないといけない。ただし、例外があり、今の時代の様に、頭で考える分が多いと頭側の取り分が多くなり、逆に手足側の影響が大きいなら、身体側の取り分が多くなる。
    この法則は、現実の景気、便利さ、裕福さ、平等、高め合い、などに影響する。

    頭側は、言うまでも無く、頭の勉強、知識を頭に入れ、その上で客観的に見る。もちろん、ここに感情は一切いらない。
    簡単に言うと、スポーツ等、やっている人側と、コーチ、観客など見ている人側では、見えている部分が違う。頭側は、外から見ている方。身体側はやっている本人。コーチで、選手あがりの人がいる。そのとき、やっている人側の事が分かるからと言って、やっている人側に立って考えてはいけない。それをすると、頭側の、外から見ている意味が無くなる。
    頭側、身体側、どちらでもそうだが、両方要る事は要る。でも、それは、始めに言った、自分側の1から100までの縦側と、反対側の25から75までの横側の部分。この場合なら、頭側に身体側を反映する部分は要る。コーチが中途半端に自分側の縦側と反対側の縦側を考え教えるよりも、コーチはコーチ側だけを考え教える。また、選手は選手側の考えを自分でする方が、力の付き方は歴然と変わる。なぜなら、身体側は、不確定だからだ。つまり、人によって、気持ち、身体、の作り方、使い方などが、殆ど違う。なので、コーチの教えをそのまましても、自分を効率良くは使えない。なので、身体側は自分で考えるしかない。もちろん、頭側のコーチ。身体側のコーチ。両方に教えて貰う方が良い。それは、見えている部分の違いで、身体側でもコーチは出来る。身体側が見ている部分を外側から教えられる。もちろん、この場合も、自分の感情は一切いらない。ただ、感情自体が使えない訳では無い。これは、身体側のコミュニケーションで使い方があるが、後か、いつか説明する。
    この身体側のコーチは、頭側の部分の身体側の横側25から75の部分。この式自体は、身体側の式で、大まかの部分。なので、多くの事に使える。例えば、頭と手足。頭の部分の身体側の横側25から75の所に、手足側の人員を入れる。そうすると、頭の人達だけでは分かり難いところが分かるので、頭として、より確実な指示が出せる。もちろん、この逆の手足側に頭側の人員を入れるのも良い。ただ、五分五分では駄目。飽く迄、頭なら、頭側が優先。身体側は組み合わせる程度しか要らない。それ以上の人を入れると、中心が無くなる為、頭が働かないに感じになる。

    身体側は、身体を使い、身体を使い易くする。
    発達障害者が、手足が不器用なのは、1から100の縦側を使えるからで、頭側の頭の勉強の場合、学校があり、1から教えてくれる。でも、身体側に学校はなく、身体側の縦側のやり方を1から教えてくれる人は誰もいない。だから、不器用なままなのだ。
    身体側が身体を使うのに、始め不器用なのは、75から100を使う為だと思う。それは、頭側の頭にも言える。要は、1を知っているから、100を知れる。という奴で、スポーツで考えると分かり易く、技が出来るからと言って、基本を疎かにして良い訳では無い。しかも、身体側は、常に動いている。つまり、始めに覚えた基本も、常にしておかないと身体は、自分がした動きに流れる。つまり、いつの間にか基本動作が出来ていない状態になる。これが、初心に帰る理由だ。初心という言葉に心が付いている様に、心も身体側の物で、心も良い悪いはあり、心も左右して行くのが人間。ちなみに、初心に帰りたいと思います。と口に出して言う人がいるが、これは、身体側の事なので、内に秘めるだけで、口に出してはいけない。口に出すと、また、意味が変わって来る。これは、頭側と身体側の二つ意味があり、身体側は気持ちの操作になるので、詳しくはいつか説明する。まあ、昔の人なら分かると思うが、意気込みは、他人に言う事では無い。どうしても口に出すなら、掲げる様な目標を口に出すと良い。なぜなら、掲げる物は、元々、外に出す物だから。これは、優勝する。とか、ライバルにだけは勝つ、など。ただし、ライバルの場合は、皆がライバル関係だと知っている前提である事。皆が知らないと、これもまた先程と同じ様に、意味が変わって来る。
    身体を使い易い様にしたいなら、身体を使って行くしかない。スポーツ等、子供のときからやっている人と、大人になってからやった人とを比べると、才能、努力、やり方の差を抜くと、当然、子供からやっている人の方が出来る。
    頭の勉強と同じと考えて貰って良い。才能などの差もあるが、小さい頃から、勉強しているからこそ、頭が使える。要は、その内容の多さ。どうしても物理的な時間は要る。
    ただ、外から見える形は、頭でしか分からない為、身体側の人が身体を使う際は、形には拘らない。内側の身体の流れを重視する。これは、ムチを扱うのと同じ要領だと思って欲しい。例えば、新体操のリボン。リボンを無理やり、自分のしたい形には持って行けない。簡単に言うと、リボンが勝手に作り出す動きに合わせ、形を作るしかない。つまり、身体を使うにおいて、形は二の次。
    身体側は、身体がどれだけ使えるかに掛かっている。なので、頭で考えると辛そうに見える、子供が身体を使い仕事をする。または、身体を使って手伝いをする事が、別に辛い事では無い。それは、頭の勉強をするのと同じくらい大切な物である。だから、小さい子が頭の勉強をするのと同じ程度に思う。これは、食べる。を基準にして考えると良く分かる。実際に、家畜方法を、頭で勉強をした人。身体を使って勉強した人。それぞれが、一人前になり、一斉に作業に取り掛かった場合、確実に食べられるのは、身体を使って勉強した方である。これを考えたら、身体を使って勉強する事がどれだけ大事かすぐに分かると思う。
    これは、ただの水汲みでもか?と疑問に思う人もいると思う。
    身体は、先程言った様に、大まかがある。なので、他の事にも当然、使える。
    水汲みで言うと、忍耐が鍛えられる。重い荷物の持ち方。気持ちの持ち様など、他の事にも使える。それに身体は、常に使っていると苦に思わないが、急に使い出すと苦に思う。逆を言うと、いつも身体を使って来たが為に、動いていないと気が済まない。という人もいる。さらに逆を言うと、身体を使って来たが、身体を使うのを止めた為、身体を使って来たときの事を思い出すと辛い様に思える。つまり、身体は、慣れ。で思いが変わる。ただ、基本、身体は動かす物なので、動けた方が良い。
    これは、頭での考え様も、もちろん、影響して来る。
    頭と身体は反対になっている為、子供の頃の水汲みが、人に辛い事だよ。と言われる事で、だんだん辛い思い出に変わる事もあると思う。そこは、頭の理解で変わって来る。ただ、身体側の事は、全てを知ってから、自分で結論を出すのが一番良い。頭の理解により、忍耐を使いたくない。重い物を持ちたくない。気持ちを変えない。など出来る。でも、それは、他人が強制する事ではない。なぜなら、それは、洗脳になるから。だから、自分で考えれば良い。というよりは、強制的に自分で考えないといけない。
    ただ、これは、自分の実力でも変わって来る。水汲みの経験が他の事に反映出来ない実力なら、それは、他の事に使えない。もちろん、自分の実力も自分で鍛えるしかない。それは、飽く迄、自分が悪い。水汲みをさせた側が悪い訳では無い。ただ、言わなくても分かると思うが、奴隷は別。
    それは、身体側の使い方にある。身体側は、先程も言ったが、教えて貰った事を、そのまましてはいけない。なぜなら、十人十色だから。なので、人に教えて貰った事は、飽く迄、武器になる。それをどう使うかは、自分次第。だから、身体側は、豊富な考えが出来ないと、武器の使える幅だったり、武器の多用などがし難くなる。
    つまり、頭側、身体側の特徴は、それぞれで、全て上手い事行く様に繋がっている。これは、頭側、身体側に分けた部分を繋げると分かる。