もう一つの思考

            頭側と身体側の違い2

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頭側は、決まっている。身体側は、自分で決めないといけない

頭側は、法律で決めていたり、まあ、縛る。と言った方が良いかも知れない。簡単に言うとルール。
身体側は、縛られる事が無い。言わば、自由。簡単に言うとマナー。

例えば、大人になり、就職する。新人の頃は、上司などに怒られたりする。先輩に見張られ、まあ、籠の中の鳥、状態だ。
でも、役職に就けば、誰も怒ってくれないし、見張られる事も無い。そのとき、自分の行動などは、自分で気付き、自分で抑制しないといけない。
身体側なら、後者の状況がいつもで、どこまで我慢するか、どこまで気を張ってやる事を成さないといけないか、など色々あるが、それは全部、自分の器次第になる。
つまり、身体を鍛える。気持ちの持ち様。気合い。等、身体側の物は、全て自分次第である。

大人なら、誰でも分かると思うが、世の中を生きる上では、ルールとマナー、両方、守って行かないといけない。
今の人は、大体、頭側の方を守っていれば、身体側の方は、何をしても良い。と勘違いしている人が多い。
身体側が自由。と言っても、それは、自分の為なら、他人に迷惑を掛けても良い。という事では無い。
器は、この自由の部分で計れる。
この器は、もちろん、外側の他人の言葉では計れない。それは、上司に気を遣う部下は多い、等ある為だ。
それなら、何で、それを計るか。それは、行動である。

頭側は形を重視する。身体側は行動を重視する

今の日本人達を見ていれば大体分かると思う。自分の行動が間違っていても、相手が良いと言えば、良い。と判断してしまう。
身体側なら、自分に問い掛ける為、自分が正しくない事だ。と分かれば、相手が何と言おうと、自分の意思で償わなければいけない。これが出来る人間は、今は、もういない。ただ、例外はある。それは、頭側の、都合が合う為の手の組合い。と、身体側の、助け合い。
この、頭側と身体側の違いは、頭での都合か、体感による都合かの違い。頭での都合は、言うまでも無く、成す事が同じ場合など自分にとって都合が良い為に、成すまでの間だけ手を組む。身体側の場合は、初めから二人、もしくは、多人数で事を成す場合で、お互いが得意な所を持ち寄り、相手の不得意な部分を補う。
手を組む場合は、自分にとっての都合により、でしか助けない。つまり、自分の命までかけない。だけど、助け合う場合は、皆で成す事が前提な為、その成す事の為ならば、要る能力の人の方を生かす為、自分の命は投げ打つ。ただ、何事にも逆はある。手を組む方は、心が身体側に比べ弱い為、死なれると自分が悪い事をした様に感じる為、人を死なす事を嫌う。助け合う方は、事を成す為ならば、平気で、人を見殺しに出来る。それは、事を成す。という強い意思がある為だ。もちろん、これは、意思疎通が出来ている仲間だという事。もしくは、成し遂げたい気持ちが強い場合、身体側は気持ちを重要視する為、その気持ちの方を受け取る。これは、頭と手足の違い。手足の、現場の方は、命を落としてしまう仕事もある。
これを読んで分かった人もいると思う。この頭側と身体側を上手い事発揮できれば、命を落とさず、事を成せ易い。頭側は、事を成すより、命の方が大事。身体側の方は、命よりも、事を成す方が大事。つまり、身体側の人を死なさ無い様にするのは、頭側の人の仕事であり、何が何でも事を成すのは、身体側の人の仕事である。この二つが本当の意味で交わったとき、どれだけの力が発揮できるのか、見て見たい。
まあ、頭側の方は、死なせた事について、身体を使い現場で働いていない、恨めしさもある。ただ、それも、頭側が、自分の能力を引き出す為の物である。皆の意見が気になる。だから、皆に責められない為に、頭を使う。つまり、皆の意見を気にするが為に、自分の力を意図して発揮する。もちろん、身体側の悪い所というか、嫌な所に関しても同じである。この場合なら、皆の意見は聞かないが、死んだ人を頭の中で思い出してしまう。そのとき、自分の力の無さを悔いる。その失敗を成功に変える為、努力して行く。
つまり、失敗は成功の元。というのは、身体側。失敗は許されない。というのは、頭側。だから、頭側は、一つの失敗も許さないし、人の失敗を根に持つ。逆に言えば、身体側は、失敗を何とも思わない。頭側は、失敗を成功に変えない。これは、原発で考えると、すぐに分かる。手に負えないにも拘わらず、まだ、使おうとしている。それは、頭の都合が勝ってしまうからだ。
まあ、自分の思考の特徴を理解していないのだから、仕様がないが、早く理解するべきではある。これは、もちろん、身体側にも言える。
人は人に言われないと分からない、気付かない。という事がある。それは、この、頭側、身体側と同じ。前に、選手とコーチ、観客で分けたが、これと同じで、自分側は自分で感じる為に分かるが、反対側は何も感じない為、気に出来ない程、分かり得ない。つまり、自分を客観的に見ても、それは、自分側から見たもの(25から75までの横側)で、他人から見た部分は、一つも見えていない。と思って良い。これは、誰にでも言える。だって、自分が見えない、感じない部分なのだから、分かるはずが無い。これが、半分はある、という事。だから、生きる上で、半分は、他人に指摘されないと、自分を良く出来ない。
それと、身体側は、器、マナーの方が見える為、上から目線になるのは仕様がない。頭側は、ルールな為、そこまで上から目線にはならない。
このルールとマナーと、前に言った、一度の失敗も許さない。と、失敗を気にしない。それに、頭側は頭側で繋がっている。身体側も身体側で繋がっている。をくっ付けると、ルールは一度も破ってはいけない。マナーは失敗しても気にしないし、自分次第。となる。
身体側にとっては、マナーを守るのが普通なので、ルールが邪魔ではある。要は、自分がちゃんとしていれば、要らないルールも多い。例えば、信号。これは、これで、便利ではあるが、一人一人、交互に行く。など、守れば、誰も通らない信号を待つ事は無い。十字路の信号で、良く車が通る道と、あまり車が通らない道で交差している場合、信号の待ち時間が違う。あまり車が通らない方は、どうしても長い時間、待たないといけない。ルールが無く、マナーを守っていれば、変に待つ必要は無い。ただ、どちらか一方にしてしまうと、有利不利が出てしまう。この場合なら、あまり車が通らない方は、すぐに、十字路を抜けられる。つまり、頭側、身体側を上手く組み合わせないと、不平等が起こる。
では、ルールは一度の失敗も許されない。にも拘らず、なぜ、誤審は許してしまうのか。頭側は、細かい。一つな為、細か過ぎる所まで拘らない。つまり、身体側が抜けている為に、誤審でも許さざるを得ない状況になっている。要は、そこをちゃんとした理由で定められる人がいない。だから、誤審でも、ルールは一度の失敗も許されない。を、間違った解釈にしてしまい、審判が決めたなら、判定は覆さない。としてしまっている。つまり、審判という形式の形を重視してしまい、審判の行動まで重視できていない。この誤審は、真剣にルールを守っている人にとっては、馬鹿馬鹿しくなる行為ではある。馬鹿馬鹿しくなると、やる気が無くなる。やる気は、身体側の物なので、身体側の人には、1から100の部分な為、頭側の人よりも嫌々感を感じてしまう。つまり、そこは、気に出来る身体側がルールを定めないといけない。
つまり、頭側は、自分の都合の良い形にさえなれば、自分の行動は悪くても良い。まあ、これは、説明しなくても分かる人が多いだろう。自分の行動をちょっと考えるだけで、すぐに分かるはずだ。ただ、このとき、頭と手足は、分けないといけない。
簡単に分けると、営業と作業者。営業は、人が良い。と言えば、それで良い。でも、作業者は、人が良い。と言っても、作業者が見て、悪いなら、それは、悪い。手足の方は、身体側なので、自分で判断しないといけない。そこが、頭側には、難しいみたいだ。例えば、新車なのに、見える部分に錆びがある車。錆びたままでも、良いよ。とオーナーが言ったから、それで、良い。としてしまうと、その二人の間では良いが、その車を見た人は、その錆びた車を売った人の所では、絶対に買いたくない。つまり、錆びたままでも良い。とした行動が、悪いまま残っている事になる。だから、作業者は、意地でも、その車を直さないと自分の信用に深く係わる。しかも、これは、他人の為というよりは、自分の信用、実力を示すものなので、自分の為である。誰が何と言おうと、錆びた車のままなら、それが、その作業者の実力になる。これは、買った人が喜ぼうが怒ろうが関係ない、物がどうかになる。これは、自分との闘いでもあり、作業者は、人に左右されない精神が必ず要る。人に左右されている様では、言うまでも無く、作業者としては、半人前。要は、頭側、身体側、両方良い。とならないと、本当の良い。とはならなく、考えるときは、頭側、身体側、と、分けて考えないといけない。なぜなら、この二つは繋がっていないから。

頭側と身体側とで重視する所が違うにも拘わらず、身体側の人が、頭側の様にルールを重視し、マナーを軽視している人がいるのは、どうしてか。
これは、前に言った様に、一つの世界で表と裏がある。なので、例えば、頭側での良い事が、身体側では悪い事になる。もしくは、頭側での悪い事が、身体側では良い事になる。様に、元の思考が違っていても、悪い人、良い人は、どちら側にもいる。つまり、元は違うが、同じ様な人にはなれる。
例えば、教壇に立つ先生の話を聞く。頭側の人は、先生が教壇の上に立ち、皆に話を聞きなさい。と言うと、皆は先生の話を聞く体制に入る。でも、身体側の人は、先生が話を聞きなさい。と一人一人に言わないと話を聞かない。要は、自分にとって、関係がない話は一つも聞かないので、あなたはこの話を聞きなさいよ。と言ってくれないと話を聞く事が出来ない。
頭側と身体側とで、こういう特徴があるが、似せる事は出来る。頭側の人が、身体側の人の様に似せるなら、先生の話を聞く体制に入らなければ良い。身体側の人が、頭側の人に似せるなら、皆に話を聞きなさい。と言った時点で話を聞く体制に入れば良い。実際で頭側が身体側に似せ様とすると、学校で、チャイムが鳴り、先生が教室に来て話をし始めているにも拘わらず、まだ、友達と喋っている人というのは、絶対にいる。なので、これをすれば、簡単に似せる事、混じる事が出来る。

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  • 頭側は空想(イメージ)の実力で生きる。身体側は実際の実力で生きる

    今の形と行動でも分かると思うが、頭側は、空想を中心に生きている。
    前に挙げた、頭側、身体側の勉強の例でも、分かると思う。身体側の勉強だと、体験しているので、実際、その物の実力が付く。でも、頭側の勉強では、実際には行動に移していない為、その体験の分の経験、実力が不足している。
    頭側の勉強は、飽く迄、空想の勉強。身体で勉強してこそ、世の中を切り抜ける実際の実力が付く。
    身体側は、この、実際の実力のみで生きる。ここが、今の発達障害者、知的障害者の危惧するところだ。実際に生きられる実力のある発達障害者、知的障害者はいるか?
    つまり、頭側と身体側とでは、勝負をするところが違う。
    もちろん、イメージ、実際の実力、両方、あった方が良い。物を売るときで考えると、すぐに分かる。イメージが悪いと売れ行きは悪くなる。もちろん、物が悪くても売れ行きは悪くなる。なので、両方良い方が良く、五分と五分が一番良い。

    空想と実際でも、なんとなく、外と内に分かれているのが、分かると思う。空想は現実の外側の事。実際は現実内での事。
    もちろん、人を見るのでも、見ている所が違う。
    例えば、スポーツ。人が走っている所を見ると、頭側の人は、足の形など外面が見える。でも、身体側の人が見ると、筋肉の動きが見える。
    だから、走っている人の、どこに筋肉がついていない。とかは、そのスポーツをしていなくても分かる。ただ、そこの筋肉の鍛え方は分からない。これは、勉強次第。それと、例えば、足の付け根。の筋肉が足りていない。と分かっても、足の付け根のどの辺りかまでは分からない。これは、頭側の部分が欠けている為、分からない。前にも言ったが、頭側、身体側は入り組んでいる、という奴で、交互に来るようになっている。なので、身体側で分かった後、次の頭側の部分が分からなくなると、そこで止まってしまう。ただ、全くやり方が無い訳では無い、それは、手探りでも全て試せば、何時かは当たる。
    身体は、鍛えて慣れ差す。が基本で、走るなら、走るのに必要な筋肉を鍛える。そして、走り込みをして、筋肉を揃える。ただし、これは難しい。なぜなら、身体側は、常に動く為、全部の筋肉を、走る。に一番良い筋肉量に、いつも、しておく事自体が出来難い。なので、必ず、本番に向け、調整が必要になる。ただ、鍛え過ぎ、鍛えなさ過ぎ、があると、走り込みをしても、揃い難い。まあ、簡単に言うと、走るのに、腕の筋肉を鍛え過ぎると、その腕の重さが邪魔になる。それが、自分の体力の限界近くまで走るなら、余計に微妙な調整まで必要になる。

    簡単に説明したが、外側が見える。内側が見える。というのは、大きなポイントでもある。
    要は、大脳を使えば、物事を外からしか見られない。古い脳を使うと、物事を内側からしか見られない。
    例えば、得た情報。
    頭側の人は、本など、外に得た知識を残す。なので、誰でも簡単に見られ、知識を得られる。
    身体側の人は、外からは分かり難い、身体、物などに残す。その為、簡単に実力は手に入らない。簡単に言うと、職人の技の様な物。

    頭側は全体的に、平均に教えるのが得意。身体側は、個人に合ったものを、個人的に教えるのが得意

    先程も言ったが、本などは、誰でも見られ、知識を得るのも簡単に出来る。それに対し、身体側の事は、直接、個人に教えないといけない。その為、頭の勉強の様に、全体的に一律に教える事は出来ない。
    頭の勉強の様に個人差が出るのは、身体側も同じだが、身体で考えると分かり易く、一人一人、どこかが違う。それは、身体の作りだったり、癖だったりと、色々ある。頭の勉強自体に癖は無い。勉強のやり方などに癖はあるものの、それは身体側の行動の部分で、例えば、右と左同じ力を入れる。無意識に利き手の方に力を入れ過ぎている等ある。でも、頭の計算、1+1=2。癖で1+1=3とする事は無い。それは、ただ間違って覚えているだけだから。つまり、頭の勉強は、皆が同じやり方で出来る。だから、一律で教えられる。もう一つ違うのは、教えた、の定義で、頭側は、本に書けば、全て教えた、になる。答えは本に書いてあるから。でも、身体側は、その本人に、教えた所の実力が付かない限り、教えた。にならない。
    簡単に言うと、頭側は、本をそのまま読めば、その実力が発揮できる。計算でも、その計算式が書いてある答えを読めば、それが、本人の実力に変わる事が出来る。でも、身体側は、教えられた事を、自分の身体で行動に移せないと、実力が付いた事にならない。つまり、実際に行動に移そうと思うと、絶対に自分を鍛えないといけない。
    例を出すと、車。これは、頭側の物で、誰でも同じスピードが出せる。ただし、技術は、身体側になるので、自分を鍛えないといけない。
    この思考が問題ではある。頭側は、簡単に力が手に入る為に、自分を鍛えようとしない。なので、精神を鍛える事が、頭側は凄く苦手になる。でも、これも解消できる様にはなっている。例えば、恋人など、女性の重い荷物を男性が持つ。他人の荷物は持ちたくないが、自分のイメージの為、女性の荷物ならば持つ。だとしても、自分の為とは言え、元々他人の重い荷物を持つのが嫌なら、その気持ちに反している為、精神力は付く。もちろん、これも、精神力を付けるやり方の一つなので、このやり方で良い。
    どちらの思考にも、メリット、デメリットはある。でも、何事も使い様なので、そこを分かっていれば、何ら問題は無い。ただ、使い様を知るのは、経験など要る為、簡単に知り得る事が出来ない。もちろん、使い様も、頭側、身体側、で使い様がある。これは、女性の重い荷物を持つ例の、精神力の付け方でも分かると思う。今の例の場合、頭側の理由を使って、精神力を鍛えている。この例の身体側なら、自分の物は、誰が何と言おうと自分で持つ。そうする事で、他人に左右されない精神力が付く。

    身体側には、身体側の教え方がある。身体側は、大まかな部分は変わらないのと、細か過ぎる部分は、自分で向上する為、教える必要は無い。細か過ぎる部分は、自分のこだわりを貫く部分でもあり、それは、個人に委ねるしかない。
    ただ、他人を教えるよりは、自分の子を教える方が合っている。それは、身体側は、手取り足取り教えないといけないからだ。例えば、水泳。始めにバタ足を教えるとき、人の足を持ち、動かし方を教える。この様に、どうしても一から手を出してあげないといけない。
    身体側の人は、人が身体を動かしているのを見て、どこの部分を分かる事が出来るのか。それは、身体の中の力の移動している部分。それと、身体の動かし方。別に、バタ足のときの様に、一から手を出されなくても身体は動かせる。ただ、それが自分に合った身体の動かし方とは限らない。それは、細か過ぎる部分で、力の動かし方である。大きな部分のバタ足の形は変わらないが、力の入れ様は、その人その人で違う。それは、身体の作り(筋肉の付き方など)が人によって違うからだ。だから、細か過ぎる部分は、自分で向上するしかない。
    身体側の人が、人の動きを見ただけで似た様な動きが出来る理由は、気持ちを貰うのと同じ要領でその動きを身体に取り込む事が出来る。なので、取り込んでいる間に動きを身体に慣れさすと良い。ただ、それは、細か過ぎる部分で言うと、自分の物では無い為、良い動きとは言えない。ただ、これをするには、気持ちのときと同じで、自分が体験した事のみしか出来ない。簡単に言うと、足し算。数字を足すなら全てやり方は同じ。足し算しかした事ない人が、引き算が出来ないのと同じ。
    身体を動かす形を変えると、慣らすところから始めないといけない。なので、細か過ぎる部分に手を出したとき、始めは、実力が落ちる。ただ、絶対値。というのがあり、Aのやり方、Bのやり方を十鍛えた場合、Bの方が実力が上がるなら、Bの方を鍛え直した方が良い。ただし、頭で分かる使う頻度、もあり、一時だけなら、慣れているAのままで良い。それは、他の部分に労力を使った方が良いから。ただ、大まかな部分で他にも使えるなら、Bの方を鍛えた方が良い。要は、考えるときに、頭側、身体側、両方から考えないといけない。

    頭側は、学校を見て簡単に分かる様に、勉強に遅れている生徒がいても、それを無視するかの様に、どんどん先に進んで行く。
    身体側は、個人の実力が分かり易い為、一人一人に合った指導が出来る。それは、簡単に言うと、嫌な事。一番嫌な事。二番目、三番目。とあると思うが、一番目を気にするがあまり、二番目は、それ程、嫌ではない。でも、一番嫌な事が無くなったら、二番目が顔を出す。つまり、今度は、あまり、気にならなかったはずの二番目が凄く気になる。この様にちょっとの差でも、一番目に来れば、凄く気にする事が、身体側には出来る。だから、個人に合った指導が出来る。
    ただ、レベルが同じ生徒を集めれば、頭側も、その生徒に合った指導が出来る。これは、前にも言った様に、やり方やり様で、似た様な事はどちらも出来る。だから、身体側も遅れている生徒を気にしない様にする事は出来る。
    なぜ、身体側が、相手の出来具合を分かる事が出来るのか。それは、内側を見ているからで、普段、成績表などなければ、それは、内側に隠れている。だから、頭側の人には、見づらい。
    では、身体側の人は、人のどこを観察しているのか。それは、行動で、その人の行動を見れば、実力が大体分かる。それともう一つ、人の頭の中を覗ける為、頭の中の表に出している部分は見える。ただ、両方とも、自分の経験から、計算する為、本当の値は分からない。要は自分の経験から、上か下か見るだけ。
    頭の中の表に出している部分は見える。というのは、気持ちと同じで、気持ちの場合、その人が思いとして出していれば、それは、口に出しているのと同じ。なので、他人の思いが聞こえるし分かる。頭の知識の場合、頭に知識が出ている。その部分を貰えば、自分が勉強した部分だけだが、忘れていても思い出させて貰っているので、思い出せる。
    自分が勉強した部分だけ。というのは、表に出しているのは、口で言っているだけで、教えている訳では無い。なので、知らない事は、単語を言われても知らない。もちろん、気持ちも同じ。知らない気持ちは分からないし、勘違いもする。

    教えるのに、本当の出来の値を知らなくても良いのか。それは、知らなくても良い。例えば、数学が得意な人でも、応用が苦手な人もいる。この場合、身体側が教えるなら、応用の部分。頭側の人なら、置き去りにして、先に進めるのが一般的だ。
    この違いは、向上の仕方の違いで、身体側は、経験を積み上げ、ピラミッドの様に下から向上して行く。どこか大きく欠けると当然、向上できない。それが、土台の部分なら、意地でも鍛えないといけない。これと前に言った、一番目を凄く気に出来る。という奴。つまり、欠けている部分は凄く気に出来る為、別に数値が適当でも関係ない。
    頭側の場合は、道を進む感じなので、選んで行ける。道がどうしても詰まったら、前の道をそこに持って行き、繋げれば済む。なので、置き去りにして、先に進む。

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  • 頭側は、決まった事、確定が得意。身体側は、決まっていない、不確定が得意

    これは、前にも題を出したが、今の学校の例でも、道を戻り教えようとはしない。それは、皆に合わしているからとも言えるが、身体側なら、道を進みながら、教えられる。それは、ピラミッドをトーナメント表に変えると分かり易いと思う。下の段で教えなくても、その部分と繋がっている上の段で教えれば済む。教え方は、その人に対し、その部分だけ今進んでいる分全部を教えれば良い。すると、多く経験を得る為、覚え易くなる。これは、黒板に書いているときに口で言えば、皆の邪魔にもなり難い。ただ、分からない所の下の段と教えている上の段との差が開いていると教え難いが、そこは身体側の人の力量次第。つまり、不確定な、人に合わせて普通に行動できる。この能力は、思考による能力なので、頭側にもやり方はある。一つは、補習だとは思う。それは、道を繋げる為で、別で時間を作らないといけない。
    ただ、身体側は、受け渡しになる為、人に合わせた分、どこか欠けてしまう。さっきの例なら、口で言っている間、黒板に書くという集中力は少し欠く。すると、両方でミスもし易くなる。これは、力量でカバーするしかない。身体側の教える力量がない場合、皆に教える量を少なくするしかない。
    身体側は、ただ単にこれだけでは無い。相手の気持ち、やる気も、身体側の方は操作出来る為、早く覚えられる様、持って行く。ただ、頭側のやる気の出し方とは全然違う。頭側は、簡単に言うと、物で釣るとか、甘えさせてやる気を出さす。身体側は、この反対なので、どうしてもやらないといけないない状況に追い込み、やる気を出さす。簡単に言うと、やらなきゃ仕様が無い、という感じにさす。要は、底力を出さす。これは、頭側の上辺と身体側の元の違いだが、これは後で書く。この事だけで言うと、甘えさせて、一時だけやる気を出さすのは、上辺。底力は、上辺の気持ちでは出せない。だから、元。頭側でやる気を出させて貰っていた人が、後に何か無いと頑張れないのは、元の底力が弱いままだからである。ただ、やる気自体は、身体側の物になる。なので、頭側の人には、元々苦手な分野ではある。これは、子供のうちに鍛えておくのが良い。それは、前に少し言った様に、誰でも生まれたときは、身体側からだからだ。
    頭側の場合、平等に教えないといけない暗黙のルールもあると思う。これは、前に言った、教えた、の定義の違い。頭側は、同じ教え方をしないといけない。のに対し、身体側は、同じ力量にして上げないといけない。

    頭側の方は、頭の勉強で分かると思う。1+1=2と決まっている。答えがxとyでも、それが答えと決めている。
    それに対し、身体側は、1+1でも、2になるとは限らない。
    身体を鍛える。で考えると分かるが、例えば、腕立てを十回する。同じ形の腕立てでも、力の入り具合、スピード等により、鍛えられる力は変わってくる。それに、自分の今の強さ次第でも鍛えられる強さは違う。計算しようものなら、かなり細かくなる。とても計算できるレベルでは無い。
    それを身体側の人が、どう計るのか。それは、経験を積んだ自分の身体で計る。
    これは、人の思いを聞くときに言った三つ。身体側にどれだけ行っているか。身体側のレベル。相手との距離が関係する。相手との距離は他人を見る場合。
    思いを聞くとき、相手の思いの強さも関係する(強い思いなら聞こえる、等)と言ったが、これも、もちろん関係ある。

    頭側は、観察し調べる事で、物事を分かる。身体側は、察知。感知で、物事を考え、分かる

    どちらも教えて貰っている事に変わりは無い。この違いは、外と内の違い。
    察知、感知。と言っても、相手が思いや行動などで教えてくれている。
    つまり、身体側の物の何かがおかしければ、何かがおかしいと分かる為、そこを考えられる。どこまで気付けるか、考えられるかは、その人のレベル次第。

    他人の思いが自分の身体に来る。というのは、おそらく、自分の大脳を乗っ取られている。
    偶に、他人の具合いを貰ってしまう人がいる。吐き気などの事で、身体側は、吐き気だけでなく、色々な物を貰ってしまう。
    なぜ、情報を得るだけでなく、乗っ取られる、なのか。

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  • 頭側は自分の頭で指示を出す。身体側は、身体に任せる

    頭は、自分で指示を出している。なので、他人に左右される事は無い。
    ところが、身体側は、身体に任せる。指示は大まかな部分の意思だけで、あとは、身体が勝手にしてくれる。普段、意思は、良い事をする。や、一生懸命やる等、簡単に言うと、身体に付けた癖と性格のまま勝手に動く。
    部分的に言うと、今、書いている文章。考えておいてね。と身体に指示を出すと、ある程度考えておいてくれる。だから、書くときは、すらっと書ける。だけど、文章が気に入らなければ、どう気に入らないか言えば、自分の考えられるレベルの範囲で考えてくれる。ただ、大まかな部分から、細か過ぎる部分に行く順序がある為、大まかな部分は、大した考えは出ない。簡単に言うと、ベースが出て来るだけ。なので、ベースを出した後、どう細か過ぎる部分を出すか、指示を出さなければいけない。細か過ぎる部分の指示は、もっと凄いのを出せ。とか、もっと詳しく書け。という感じ。すると、勝手に書いてくれる。もちろん、思いもしない事を突然、書いてくるので吃驚する事もある。なぜ、吃驚する程の事を書けるか。それは、身体側のやり方で、力を付けてから動く、が基本なので、そこまで考えられる力があれば、当然、書ける。書くまで、その事を知らないのは、考えられるレベルがあっても、そこを考えていないから、知らないだけの話。
    では、身体側は、積み上げて行く、向上の仕方なのに、なぜ、抜けている部分が出て来るのか。それは、大まかな部分にあり、前に努力で、予習復習は、全てに使える。と言った様に、考える力も、他の考えに使える為、自分の要る部分を考え、考えられるレベルが上がると、他の部分を考えるときも、その上がった考えのレベルでいける。ただ、身体側は常に動く為、考えるのを止めると、考えられるレベルも下がる。ただし、意思で、考える事を止めない事も出来る。トーナメント表で言うと、上った所の横も上れている事になる。でも、これは、考える、のみ。前に臨機応変に動けない理由に、単体の力を全部付けないと、事が成せない。と言った通り、新たな知識などを得ると、考える以外も上がれる為、その知識関係のところは、自分の考えられるレベルまでは容易に考える事が出来る。なので、突然、吃驚するような事を書く事がある、という事が起きる。
    でも、他で身体側を使っていると、同じ所を使う事になるので、身体側で考える事は出来ない。でも、頭を使っていても、身体側は考えられる。これは、使い様があり、身体側が集中したい場合、外の事に気を取られていると、集中できない為、頭で外を考えさせ、身体側は、内で考える、という事をする。なので、考えのレベルがどうのこうのと言っているが、殆ど自分で考える事は無い。勝手に全部してくれる。
    前に、頭側は知識で、身体側は考え。と言った様に、努力せずに覚えられないのと同じで、努力せずに考えられる訳では無い。考える事自体は勝手にしてくれるが、それには、それ相応の環境が要る。例えば、窮地に陥った人が凄い考えを出した。これは、皆、知っていると思う。この様に、凄い考えを出すには、自分を窮地に立たす必要がある。つまり、精神的に追い込まなければいけない。人は、自分が困っていないと考える事はしないし、行動にも出ない。でも、困っていると、考え行動に出る。そこが、頭側と違う所で、知識を覚えるだけなら、自分が好きな事の方が、覚え易い。なので、褒めて育てる。という言葉が出てくる。これは、知識を他から得るときで、考える時には、通用しない。なぜなら、満足感がある為、上手く考える事が出来ない。ただ、頭側の知識を、繋げる、または、活かす為の考えくらいなら、褒めて育てる形でも、考えられるとは思う。
    身体側は、こういう風に環境を使って、自分を向上させる。もちろん、環境によって、自分を堕落させる事も出来る。環境をどう使うかは自分次第だが、それが、自分の実力を左右する事にもなるので、環境は、慎重に整えないといけない。
    身体側は、こういう感じで、他人任せ、環境任せな様に自分を動かす為、他人の思いが自分の身体に来たとき、その指示がいつの間にか、自分の身体に下っている。
    これは、自分と貰う意思の強さによる。
    でも、普段、強い意思なんて持っていない、性格のみ。なので、いつの間にか、落ち込んでいる。や、焦っている。など、多くある。
    ただ、気付いたときに、自分の気持ちかどうか、自分を調べれば分かる。なので、その上書きされた気持ちを払拭する事は出来る。
    ただし、強い思いには、負ける事もある。これは、頭側で言うと、衝撃を受ける様な事柄を聞いたとき、自分の事ではないけど、なぜか、自分の事の様に思い落ち込んでしまう。という事があると思う。それと同じ。
    そのときは、時間で解決するか、自分の気持ちを強く出すしかない。時間の場合、どんなに強くても三日経つとその気持ちは消える。でも、個人差はあると思う。自分の気持ちを強く出すには、何かに集中すると良く、内に閉じこもると良い。要は、集中し過ぎて周りが見えない、状況に自分をすると良い。でも、一番良いのは、その人の気持ちを良くさせて上げる事だが、そこまでの強い気持ちは、すぐには良くさせてあげられないと思う。身体側の場合、そうなる原因を置いておいても、気持ちは良くしてあげられる。これは後で書くが、恋人か、仕事のパートナーなど、常に一緒で無い限り、難しい。ここまでの強い気持ちは、環境を整えて上げないと、どうにもならない事が多く、他人の環境を整えるのは、そう簡単に出来ない。ただし、身体側の人自身が環境になる事は出来る。簡単に言うと、怒る人の前はちゃんとするが、怒られない人の前だと気が緩む。という感じ。ただ、身体側の人が居なくなれば、環境は元に戻る為、元の気持ちに戻る。もしくは、もっと悪化する。もっと悪化するのは、ダイエットのリバウンドと同じ感じで、身体側に良い環境は、頭側には悪い環境になる為、何をされているか分からないと憂さ晴らし感覚で100パーセント、リバウンドする。身体側の人が去るなら、その人の精神も変えないといけない。マナーなど、自分の気の持ち様がものをいっている。つまり、最悪、性格まで変えないといけない感じになるので、そう簡単に出来ない。
    もちろん、逆もあり、人の気持ちを利用して、自分を良くする事も出来る。
    例えば、誰かに、背中を押して欲しいとき、他人の気持ちが、背中を押してくれる。これは、他人に背中を押して貰う身体側のやり方の一つ。頭側は、言葉、報酬など、頭側の物で後押しして貰うと思う。
    この気持ちは、CDなど録音した物でも貰える。ただし、同じ曲の場合、一回目と、すぐの二回目以降では、貰える強さは変わってくる。これは、食べる欲求で考えると分かり易く、腹八分目、食べた後、また、同じ量の同じ食べ物を出されても、始めの様な気持ちは出ないし、食べる気も起きない。でも、それが、偶にだと、始めに食べたときと同じような気持ちは出る。これと同じ。
    でも、CDは、とんでもない強い気持ちも入っているので、気を付けて欲しい。落ち込んでいる気持ちの歌声が好きでも、それを聞くと、落ち込んでしまう。これは、何回聞いても、なかなか払拭できなく、今日は大丈夫だろう、とかは一切ない。

    頭側は、自分の周りを強く出来る。身体側は、自分自身を強く出来る

    例えば、車。車に乗っていると、遠い距離でも早く着ける。でも、自分の身体が強くなる訳では無く、逆に、自分で遠い距離を行っているにも拘わらず、運動不足になる。ただ、誰でも同じ速さが出せる所は素晴らしい。まあ、これは、大脳の特徴なだけだけど。
    身体側は、自力での実力で勝負するので、自分自身の強さが要る。遠い距離を行くなら、走るしかないが、走れる体力がないと、遠い距離を走る事は出来ないし、スピードも出ない。ただ、頭側と違い、自分の実力通りに行けるので、変な無理がない。これは、車で言うと、スピードを出すのが怖い人がいる。誰でも、ちょっとアクセルを踏むだけで、自分の実力以上の物が出る。これは、かなり怖いものがある。つまり、頭側の物は、誰でも使用できるメリットはあるが、その人に合った物ではないデメリットがある。その為、車は免許という形で習熟はするが、その後は本人任せな為、自分の実力に合っていない物に変わる事もある。それは、習熟が自分を強くする方なので、頭側一つでは、どうにもならない。
    でも、頭側一つでも、ある程度、車社会は成り立ってはいる。それは、前に言った様に、頭側は、頭側である程度、上手く行く様に思考がなっている。さっきの怖いから、スピードを出さない。と言うのもこれに当てはまる。ただし、それは、一つの思考を上手くいかせるだけの物である。なので、それを、地球上全体に当てはめるのは、間違い。これは、後で書く。
    身体側だと、気持ちや根性などは、1から100の方なので、尋常でない程、精神的に強くなれる。例えるなら、世界でたったの一人になっても、余裕で人生を送れると思う。
    これは、前に題を出した、形と行動の違いでもあり、行動を重視する身体側は、自分を強くしないと良い行動は取れない。形だけなら、正しい。という事にしておくだけで良い。簡単に言うと、法律に触れなければ良い。という奴だ。ただ、法律でどこまで人間を縛れるのか。そこを考えれば、それだけで良いのか、大人なら、分かって当然である。身体側なら、自分に負ければ、良い行動は取れない為、法律の事は、初めから頭に無い。まあ、頭側、身体側どちらも、自分の方を中心にして考えてしまうが、反対側も、もちろん、取り入れないと、人間としての本当の行動は取れない。

    では、他人の気持ちに背中を押して貰っていて、自分を強く出来るのか。そこは、自分の力だけで、気持ちを上向け頑張るべきじゃないのか。
    それは、気持ちの操り方にある。前にも言ったが、環境を利用して、自分を左右させる。その環境次第では、自分を追い詰めたり、浮かれたり出来る。つまり、環境を自分で整える身体側にとって、人の気持ちを貰い、自分の糧とする事は、その範囲である。
    頭側なら、他人に良い事を言って貰う等で、背中を押して貰うと思う。要は、頭で理解して、自分の力にする感じ。身体側は、こういう使い方は、普段しない。それは、普段、頭で理解しないからというのもあるが、身体側の良い気分と頭側の良い気分が違うからでもある。頭側は、浮かれる。落ち込む。で言うと、浮かれるが良い気分になる。でも、身体側は、浮かれるも落ち込むと同じく悪い気分になる。それは、どちらもミスをしたり周りが見えなくなるからだ。身体側は、浮かれる落ち込むの丁度真ん中が良い気分になる。一番周りが見え、自分を発揮できる。

    これは、薬も同じで、頭側は、身体を強くせず、薬を強くし、人間に効果をもたらす。
    身体側は、身体自体を強くする。例えば、風邪や高熱。これは、頭側の病気で、元々身体側には分からない。ただ、知っている事は分かる事も出来る。身体を強くすれば、ピークにならないと気付かない。それまで、身体が普通に動くので、前兆があっても気付かないのだ。ピーク時でも、身体が鈍くなる程度で、別に普通に動ける。ただ、治すのに寝たりはする。でもそれは、普通の疲労回復をする方法であって、病気で動けず寝込むのとは違う。これは、本当に気付けない。
    では、なぜ、そうなるかと言うと、頭側と身体側とでは、身体の動かしている部分が違う。頭側は身体の外側を動かす。身体側は身体の内側を動かす。頭側の病気のときに、頭側で身体を動かすと、元々頭側で動ける身体が100として、頭側の病気が70だとすると、動かせるのは、30になる。なので、頭側で動くと30な為、身体は動き難くなる。でも、身体側だと、頭側は、共通している25から75までしか分からない。つまり、頭側の半分しか影響を受けない為、病気の部分は、35になり、病気で無い部分は、65になる。なので、動ける。前に才能値の所で、頭側と身体側は、別々で推移している。要は、頭側が80なら身体側は20という訳では無く、互いの才能値は干渉していない。と言った様に、飽く迄、干渉する部分は、元々共通している身体側で言うと頭側の横側25から75の部分だけ。ただ、影響を受けるのが、100対50で2対1とも取れるが、両方足すと150にもなる為、三分の一になるのかまでは分からない。
    ただ、頭側の病気には、有効な頭側の薬を使う。これは、頭側の病気の場合、頭側が縦の1から100まで知っている。身体側から頭側を見ると、横側の25から75までしか分からない。なので、頭側の病気に対し、身体側の対処をしても、不十分になる。飽く迄、1から100を知っているベース側が有効であり、反対側は、その手助けくらいしか出来ない。もちろん、身体側の病気もある。ただ、病気の事は、頭側では、簡単に言っては良い物では無いらしく、僕の調べでは不十分なので、これで終わる。ちなみに、身体側の場合は、考えを表に出し合い、その中で結論なり纏めを出す為、別に口に出して良い。というよりは、相手の意見を聞かないと、何も考えられない為、何も出来なくなるので、困る。まあ、反対になっているので仕様がないが、頭側、身体側を加味すると、ここは心に傷を受ける頭側が、ただ単に、見なければ良い。そうでないと、人間として、向上が出来ないので、これは仕様がない。身体側は、今の時代が頭側だけな為、否が応でも頭側も考え、行動に出ている。その事を忘れないで欲しい。それに、身体側が無い状態なので、もっと、難しい対応を産まれたときから、迫られている。だって、自分の思考が無い扱いを受けている訳だから、普通に考えて、生きる道筋が全く無い。それだけでなく、使い難い反対側の思考を押し付けられる訳だから、まあ、難しいなんてものでは無い。

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  • 頭側は、頭側の物でコミュニケーションを取る。身体側は、身体側の物でコミュニケーションを取る

    身体側のコミュニケーションの取り方は、主に気持ちであり、精神的な物である。
    浮かれる。落ち込む。これらは、気持ちの持ち様として、良いものでは無い。基本としては、頭側は浮かれるのが得意で、身体側は落ち込むのが得意。まあ、これは、頭側の褒めて育てる。というのと、身体側の自分を追い詰め、力を引き出す。の違いを考えれば、分かると思う。
    浮かれる。だと、自分の中に閉じこもる事は無いが、周りを気にし過ぎてしまう。その為、周りに自分が良い気分になる様、強要してしまう。浮かれると、その言葉通り、宙に浮いている状態で、足が地に着いていない感じで周りが見えなくなる。要は、上辺しか見えていない。言うならば、頭側の形しか見えない状態と同じで、悪い行動でも平然としてしまう。他にも、足元が見えていないうっかりミスなども多くなる。例えば、段ボールの中身を出す仕事の場合、段ボールの中身を出し切ったと勘違いし、段ボールの中に物が残ったまま、段ボールを潰してしまい、中に入っている物も潰してしまう。等で、物事に集中できていない。これは、頭が気持ちに負けている為だ。頭側と身体側の優先順位は、後で説明する。
    落ち込む。だと、自分の中に閉じこもってしまう。この場合、周りを避けてしまう。落ち込んだ場合、自分の事が気になり過ぎて、周りに気遣いが出来なくなる。落ち込んだ場合のうっかりミスは、浮かれる、と同じ例で言うと、中身を取り出さなくても良い段ボールまで開けてしまい、中身を出してしまう。これは、自分の中に閉じこもっている為に、頭で考えない作業は出来るが、頭を使う作業がし難くなる。そうなるのは、頭は自分の悩みに使っているからだ。こちらは、頭の方が勝っている状態。
    つまり、身体側の良い状態というのは、浮かれる。落ち込む。の丁度真ん中になる。浮かれても落ち込んでもいない為、現実がはっきりと見える。簡単に言うと、地面を歩ける状態。地面から浮いていても、地面に埋まっていても、力は発揮し難い。ただ、いつでも丁度真ん中が良い訳では無い。身体側の人だと、自分の居場所的な感じで、自分の性格に合わせている。これは、精神の良さで、基本は、丁度真ん中が良い。ただ、精神の強さにもよる。精神が弱いにも拘らず、現実を見ると、ちょっときつい。まあ、ただの甘えと取ってくれても良い。
    要は、身体側の人は、気持ち、精神を上手い事利用して、世の中の荒波を乗り切る。その為、コミュニケーションは、気持ち、精神に対しする。何を基準にするかは、さっき言った、自分の精神の良さの居場所。なので、人によって、迷惑な場合はある。要は、自分の居場所へと相手を誘導する。それは、自分の良い状態が、相手にも良いと考えてしまうからだと思う。身体側同士なら、普通に相対できるが、頭側の人だと、受けるしかない。それは、繋がっていない為、身体側でされた事を、頭で解釈してしまうからだ。厄介なのは、反対になっている。という事。身体側では良い事が頭側で解釈すれば悪い事になる。もちろん、その反対もあり、現実を見ている頭側の人を、浮かれる状態に持って行くのは、簡単に出来る。これは、身体側では悪い事になるが、頭側で解釈すると、良い気分になる為、それをそのまま受け取り、良い気分=良い事、になる為、頭側の人に嫌われる事も無い。ただ、浮かれた状態にされると、行動。を起こすとき、現実を見た行動は当然、取れない。だけでなく、頭側の人では、何をされたか全く分からない為、自分で、浮かれている、と分からない。なので、真剣な事をする人の場合、浮かれる事に注意しないといけない。浮かれる事に注意しないといけないのは、身体側も同じ。
    身体側の場合、頭側の人に、障害年金や、障害者枠雇用など、特典を与えられている。それだけでなく、知的障害者の場合、一人で動くと危ない。という事を理由に何もさせて貰えない。という人もいる。身体側は、環境に合わせ、自分を作る為、甘えた環境だと、クズ人間にしかなれない。これは、大きな痛手となる。なぜなら、身体は癖という物が付く。なので、怠け癖が付くと、それを覆すのはかなり難しい。
    では、障害者年金などに頼らなければ良いだけじゃない。と言う人もいると思う。これは、知っているから、対処できるだけであって、知らない事は対処できない。つまり、身体側が浮かれさす事も、知っていれば、自分が浮かれたとき、引き締め直す様に、対処できる。だけど、何をされているか分からない事は対処できない。
    簡単に言うと、気遣い。頭側の気遣いをされても、身体側の人は全く分からない。同じ様に、身体側の気遣いをしても、頭側の人は全く分からない。
    身体側の人の場合、思いを聞いて、気遣いをする。だけど、頭側の人にとって、思いは人に言っていない事になる。なので、身体側の人が思いを聞いて気遣いをすると、頭側の人は、身体側の人が普通に勝手にした事な為、とても気遣いをされたとは思わない。
    頭側の人の気遣いの場合、黙っている事が多く、分からない。それに、頭側の人が良い事をするとき、大抵は、良い気分でする為、余計に気付かない。(意見があるなら、普通は悪い気分で言われる。)基本、身体側は、考えを言い、それに対し、考える。という事をするので、意見を言われないと、意見は何も無い、とする。もっと言うと、身体側の人が悪い行動をしていても、行動を止める様な行為が無い限り、それはしても良い行動として受け取っている。もし、言い合いなど争ったとしても、その行動が出来ているなら、自分が言い勝った、になる。なので、その行為はしても良いとなる。その為、相手が折れた。ではなく、相手は負けた。となる。だから、気遣いだと気付かない。詳しくは、身体側のページにいつか書く。
    例えば、僕の場合、お菓子を兄弟で分けたとき、一つ残る事があり、その一つはいつも僕が食べていた。でも、それをしても、何も言われない為、そのままで良いと思っていた。忘れないで欲しいのは、頭側で分かる事は、身体側では分かり辛い。それに、食べ物の場合、早い者勝ち。という暗黙のルールがある。つまり、一つ余った場合、先に取ったもの勝ち。と勝手に思っていた。
    では、どうして、自分だけが得しているにも拘わらず、気遣いだと分からないのか。それは、身体は、全員が同じ大きさでは無く、食べられる量も違う。その為、一つくらいでは、気遣いだと気付き様が無い。例えば、白飯で考えると、いつも茶碗一杯分しか食べない人は、何か無い限り、いつも茶碗一杯分しか食べない。その定義がある為、お菓子も、同じ量しか食べないと思っていた。何かあるときは、自分から、おかわり、と言う。それと同じで、残った一つのお菓子を食べたいときも、普通、自分から言うだろう。という事。身体側は、行動を見て、物事を決めて行くので、これで合っている。まさか、白飯を茶碗に一杯分だけの人と、茶碗に二杯分食べる人が、お菓子だけ、同じ量食べるとは思わない。しかも、一日三食のご飯は食べる物。お菓子は、そのご飯を食べられないなら、食べてはいけない。と教えられていたら、余計に、お菓子を同じ量食べるとは思わない。

    逆に頭側の人の場合、行動に起こして上げているのに、気付かない。そんな余分に動く訳ないでしょ。もちろん、身体側には、身体側の気遣いのやり方がある。それは、相手の動きを鈍らす様な事はしない。要は、、相手の人が、気遣われると、自分で出来るのにな。とか、色々思う事が出てくる為、自分本来の動きが出来ない。その為、仕事の場合は、自分の仕事だから、それをする。という感じに見せる。要は、初めてやる仕事なら、手伝ってもおかしくない。なので、手伝われても、お礼は言うが、何も思う事は無い。それと同じ様な気持ちに持って行く。
    要は、身体側の話し方と同じで、他人の思いに対し、自分が考え、自分が出来るなら、その思いを成しても良い。逆に、自分も思って、他人に助けて貰おうと思っても良い。ただし、他人の性格などにより、助けて貰えない事も当然ある。
    それに、頭側の人には、口で言わないといけない。これが、ややこしくなる。身体側の人は、思いを聞いて行動に移しているにも拘わらず、頭側の人には、身体側の人が勝手に行動しているだけ。になっている為、身体側の人は、何も助けていない、となる。なので、頭側の人に、口で何回も、これやって、あれやって、と言うと、自分が助けてばっかり、と思うみたいだ。
    なぜ、こういう事が起こるのか。頭側の人でも、行動で助けて貰っている事は確かに分かる。ただ、行動に鈍い為、頭で分かる事の様に、分かる事が出来ない。だから、行動に出られた数と、口で言われた数が同じ場合、口で言われている方が勝ち、頭側の人は自分ばっかりしている様に思う。自分側の方が分かり易い為、どうしても、そう思いがちになってしまうが、そこは、紙に書いて比べるかすると分かる。でも、そんな事はしていられないと思う。そこは、体験で感覚を覚えるしかない。
    身体側が、相手に気付かれない様に気遣いをするのは、別に、身体側の事を頭で解釈すると反対になる。というのを回避している訳では無い。確かに、思いで作業が大変と思っていても、何も言われず助けられると、僕が遅いから手伝っている。など思う人も多い。でも、本当は、一つの目標。というか、的を絞って行動している。前に、頭側は手を組む。身体側は助け合い。と言った様に、身体側は、自分の出来る所をやり、助け合って、より完璧にこなす。頭側の場合、得意不得意関係なく、自分のやる分は自分でやる。が普通だと思う。その違い。

    頭側は先。身体側は後

    頭側は、行動する前に分かる事がある為、先に計算をする。
    身体側は、行動してから、分かる。なので、始めに計算する事をしない。では、どこで計算するのか。それは、予習復習のときで、もちろん、予習復習しない人は計算すらしない。そういう人はただ単に思った事を行動に移すだけになる。では、予習のときの計算は、どこまで出来るのか。これは、体験した事に限る。体験していない事は、全く知らない為、計算する事が出来ない。もちろん、自分の気にしていない事は計算しない。これは、さっき言った、目標というか的。それ以外は計算しない。
    この計算も、性格による。これは、頭側も同じ。恋など、計算する人は、自分の性格の上で計算している。自分が気にしていない事は計算しない。というのも、頭側と同じ。例えば、相手に甘える。甘えたら、相手がどういう行動を取る。というのは計算に入れるが、その甘えで、他の人に迷惑がどうかかり、その迷惑をどうしたら掛けないで済むかまでは計算しないと思う。これは、自分の好きな人と異性が話しているだけでも嫉妬するなどあると思う。その場合、話さない様に気を遣っている同性の人もいる。その気を遣ってくれている同性の人の事まで気にしない。この例えで、計算は性格の上でしていると分かると思う。ただし、これは、気持ちの部分なので、身体側の事になる。つまり、身体側の事を計算する場合、頭側、身体側、どちらも、性格による計算をしてしまう。

    計算の仕方も違う。
    頭側は、頭で分かる事柄で計算している。相手が一つしたら、自分も一つする。という感じで、食事で例えると、今日は自分が作る。その他の作業は、相手がする。と決めたら、それを交互にする。次の日は、自分が他の作業で、相手が食事を作る。という感じ。
    身体側は、自分の得意不得意なども含める。例えば、食事を作るのが上手い人。と、他の作業が上手い人。なら、毎日、それで行く。偶に反対になったりもするが、それは気分転換程度で、やっぱり、自分が得意な方をやる事が多い。

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  • 頭側は平均。身体側は極端

    頭側は、勉強でも分かるが、五教科のどれかが出来たら良い訳では無い。
    身体側は、競技で考えると分かり易いが、陸上でも、100m走だけでも、世界で一番なら、凄いと言われる。たったのこれ一つだけでも食べて行ける。

    身体側は、極端な為、人に頼り易い。その為、人の見極めに長けている。
    要は、仕事など、無駄なく配置させるのが得意。配置などは頭側では無いのか。と思う人もいると思う。でも、現場で指示を出すなら、手足である身体側の人の方が得意になる。
    これは、先に計算しているか。後で計算しているかの違いで、先の計算は、学歴、職歴などで決める。後の計算は、行動した後で決める為、本当の実力が直で分かる。行動は、身体側の人の方が繊細な為、良く分かる。
    では、何がどう分かるのか。
    行動は、大まかな部分と細か過ぎる部分がある。まず、大まかな部分。これは、一つの目的の部分を見る。行動自体が身体側の物になるので、頭側の人でも行動に出ると、必ず、一つの目的が見える。その次に、細か過ぎる部分。これは、何に重点を置いていて、何を軽率にしているか。まあ、見方自体は一緒。ただ、事柄が細かくなるだけ。一つの目的を見るときも、幾つもの事柄を、見て行く。すると、何を目標というか、基準に動いているか分かる。もちろん、性格による行動や、得意不得意なども分かる。身体側は、何回も言うが二つに分ける。主と脇役なら、主は大事にし、脇役は軽率でも許される感じ。ただ、バランスはある。主のレベルが高ければ、ある程度許されたり、主のレベルが低いのに、脇役も軽率にしているなら、それは、許されない。

    区別の仕方

    差別。という問題がある。昔なら、白人と黒人。他国差別。等ある。白人と黒人だけでなく、日本なら、サル等と言われる。
    これは頭側で、分野などを分けるのに、その区別の仕方が出来る能力がある。その能力の間違った使い方が、そういう差別である。
    身体側の場合は、主と脇役。正義と悪。の様に、二つに分ける。これは、共存の為である。普通に考えて、どちらも主、どちらも脇役なら、何も生まれない。だから、どちらかを正義、どちらかを悪にする必要がある。これは、どちらが良い、どちらが悪い。というのは、お題が何かによって変わる。例えば、戦争時の英雄も、平和になれば、悪になる感じだ。これは、お題によって、人の行動は変えないといけない為、平和なのに、戦争時と同じ事をしているなら、悪い人になるが、戦争時だけなら、別に英雄のままで良い。これは、その人の問題ではなく、戦争が良いか悪いかの問題。もちろん、今の時代での良い事も、違う時代なら、悪い事に変わる事もある。