もう一つの思考

            頭側と身体側の違い3

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頭側は、上辺。身体側は、元

頭側は、元を気にせず、上辺を気にする。例えば、性格による行動も、家の中と外で変える感じ。家の中では、ぐうたらでも、外では、見せ掛けでちゃんとしたりする。
身体側は、元な為、それが出来ない。家の中でする事は、外でもする。
頭側は、性格はそのままで上辺だけを良く見せる為、性格の事を言われるのを嫌がる。つまり、元を正せ。と言われるのを嫌う。見た目が良ければ、それで良い、という考えだ。
身体側は、元の性格を直さないと良く出来ない為、上辺で良く見せ様としても、三日坊主的な事になる。要は、必ず、性格による行動に戻ってしまう。この性格を良くするには、環境を使い強制的に身体に慣れさせる。やり方は、時間を掛けて徐々にするか、強制的に一気に直す。だけど、身体側は極端な為、強制的に一気に直す方が合っている。もちろん、悪い性格にするときも同じやり方で出来る。簡単に言うと、甘い生活をしていると、悪い方向の性格に行き、辛い生活をしていると、良い方向の性格に行く。ただ、身体側は、真ん中が丁度良い。つまり、良くも悪くもない性格が一番良い。それでは、善悪にならないのでは?と思うかも知れないが、良くも悪くもない性格が、良いか悪いかは、お題によって変わる。簡単に言うと、甘えも無く辛くも無い生活が一番良い。ただ、平和なときはそれで良いが、問題が起こっているなら、そういう訳には行かない。

例えば、法律で規制しても、どんどん裏を付いて来る。というのがある。マナーの場合、良い行動をしていれば、必ず、裏は付けない。良い行動自体は、いつでも良い行動だからだ。この様に、元から正すのが、身体側。
これは、何かの原因を調べるのでも、同じ。頭側は上辺が分かり易く、身体側は、元が分かり易い。
今で言えば、景気。人口減少問題。これは、元が悪くなっている。なので、上辺から良くしようとすると、かなり頑張らないと出来ない。簡単に言うと、法律の規制で、マナーの良い人と同じ行動を取らせるようにする感じだ。
もちろん、上辺が悪いのと、元が悪いのとでは、その影響力が違う。元が悪いと、全てに関わって来る。トーナメント表で言うと、一番上が悪いと全てが悪くなる。一番下が悪くても、悪いのはそこだけで済む。
これは、頭側の思考自体がそうなっている為、元が悪くても上辺が悪い様にしか処置が出来ない。ただ、上辺でも、トーナメント表の下から順に一つずつ良くして行けば、元にたどり着くが、いつになるかは、不明な上、元が分からない以上、これは、対処が難し過ぎる。これは、法律で言うと、大抵はイタチゴッコになると思う。もちろん、身体側の元でもイタチゴッコはあり得る。でも、元は範囲が大きい為、イタチゴッコの様に、頻繁に考え実行するのは、難しい。

頭側は、知識を豊富にし、観察して上辺で一から空想で考える。
例えば、走る。というのと、ジャンプというのから、助走を付ければ、大きなジャンプが出来る。と考えられる。
身体側の場合、考えを豊富にし、感知、察知をして100から、少しの知識で実際に試して元を見付け出す。
走ってジャンプをしている人と、その場で前にジャンプをしている人を見る。すると、走ってジャンプしている人の方が飛び幅がある。では、同じ動いている、歩くで、ジャンプして見る。それでも、走った方が大きなジャンプが出来る。という事は、足の力では無く、動いているスピードでも、ジャンプ力が変わると分かる。
これを見て、お互いの弱点が見えると思う。それと同時に補える、助け合える式図も見えて来ると思う。

頭側は完結型。身体側は無限型

少し分かり難いと思うが、頭側は、そこで一旦考えが止まる。走るとジャンプからは、助走を付けて走る以外、見付からない。他の知識を付ければ、他の考えは出て来るが、それも、一つで止まる。ただ、豊富な知識を突けまくれば、考えも豊富に出てくる。
身体側は、スピードで変わる。という元を出している為に、色んなスピードの出し方を考えられる。つまり、走る以外にも、ジャンプ力が上がるもの、もしくは、下がるものがあると分かる。つまり、元を拠点として、次と続いて行く。ただ、スピードで変わる。という枠内の考えしか出て来ない。つまり、頭側の様な広がりはない。でも、一つを極める事は出来る。

身体側の今の例でも、身体と同じく、限界が無く、上がる下がるの二つに分かれているのが分かる。身体だと、どこまで鍛えられるか分からない。例だと、出るスピードの限界が分からない。身体は、鍛えれば強くなるが、鍛えなければ弱まる。例だと、スピードを速くすればジャンプ力は上がり、スピードを遅くすればジャンプ力は下がる。
これに頭側のものを当てはめると、走るは、上も下も無い為、限界がある。走るは、走る、だけ。追い風で走る。とか、道具を使って走るでは無い。それに、走るの中の速い遅いの話でも無い。空想で考え出した答えは、助走を付ければ、大きなジャンプが出来る。なので、速さの事には触れていない。つまり、頭側の物は、身体に当てはめる事は出来ない。

身体と同じで言うと、例えば、浮かれている人に説教をする。
身体側で言うと、浮かれていて、地に足が着いていなく、周りに迷惑を掛けたり、自分の力が発揮できなくなるのは困る。その為、浮かれを無くしてくれるのは、ありがたい。
身体を動かすときも同じで、地に足が着いていないと、準備運動を怠ったりと、細かい所に気を配れない。なので、身体を乱暴に扱い、身体や周りの物を壊す確率が高くなる。周りの物を壊す。というのは、例えば、金槌。柄を持っていれば、力は金槌を振った先に入るが、柄を持っていなかったら、振った先に入る力が分散され、柄の方にも力が加わり、柄が壊れる等ある。浮かれていて、柄を軽く持っていたが為に、金槌が飛んで行き、壊れた、とかだ。その為、この状態のときに、怒ってくれる人がいればありがたい事になる。
でも、頭側で言うと、良い気分に浸っている所を邪魔される事になる。こんなに腹が立つ事は無いだろう。それは、浮かれている助けもある。地に足が着いていない為、自分のしている事が理解し難い。要は、上の部分の自分のしている良い所は見えているが、下の部分の自分のしている悪い所が見えていない。それは、頭に勝っている気持ちが優先されているからだ。簡単に言うと、悪い事が10だったとしても、浮かれた気分が10あると、差し引き0になる為、良くも悪くも無い事に自分の中で解釈してしまう。浮かれている所を怒られると、自分の良い気分を、迫害された。だから、怒った人が悪い。と頭で解釈してしまう。それは、自分が100%悪いとしても、自分の気分を害した分、お前が悪いと難癖を付けてしまう。つまり、自分のした事と、自分がされた事を、浮かれている状態の自分の中で計算している為、そういう答えが出てくる。その上、怒られた方は、冷静さを欠く事が多い。そうなれば、自分の気分は、より浮かれた方向に向かい、余計に相手が悪いと計算してしまう。そのときの見た目にも、自分の方が、騒いでいる事が多く、危機感があるように思え、余計に相手のせいにしてしまう。しかも、その計算で終らしてしまう事が多く、自分が悪い事をして怒られても、平然と反省なく終らせてしまう。
この受け取り方の差は大きい。頭側と身体側を解明できていなく、その教育が出来ていない以上、今の時代では、身体側の良い事は悪い事になり、身体側の良い人は、身体側の悪い事、つまり、頭側の良い事もしない状態なので、頭側にとって、悪い事しかしない人になる。これが、身体側の良い人が嫌われる原因だ。そうなると、身体側の良い人は、自分の感性でもっと良い事をしようとする。が、そうしてしまうと当然、余計に嫌われる。まあ、生きている実感は全く感じなくなる。
そこまで分かっているなら、頭側に合わせば、皆が良い気分になるじゃないか。と思う人もいるだろう。
何事にも、メリット、デメリットはある。つまり、片側だけの世界にすると、必ず悪い方向に行く。これは、全部の事で言える。
そうなるのは、世の中が、一つの物事に対し表と裏がある物事しかないからだ。

例えば、食べ物の摂取。
お腹が減った為、食べる。お腹がいっぱいなので、食べない。これは、頭側。
目の前に食べ物がある為、食べたくなり食べる。目の前に食べ物が無い為、食べたいと思わなく食べない。これは、身体側。
お腹がいっぱいなら、食べないのが普通にも拘らず、目の前に食べ物があれば、手を伸ばしてしまう。お腹がいっぱいなら、食べないんだよね?
お腹が減っているが、目の前に食べ物が無い為、食べられない。お腹が減っているなら、食べた方が良いよね?
つまり、矛盾が生まれる。(頭側と身体側の二つに分ける方法は、身体側の人なら簡単に出来るが、頭側の人には分かり辛い。)
これを、頭側の解釈だけで言うと、お腹がいっぱいだから食べない。でも、食べ物を見ると食べたくなる。だから、お腹は、まだ、いっぱいになっていない。なので、まだ、食べる。こうなると、摂取し過ぎで肥満になる。当然、動きも鈍くなり、動物の世界なら、一番に狙われてもおかしくない。実際、こうなっている人は、普通に見かける。
つまり、片側の解釈だけでは、良い方向に行き難い。

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  • 矛盾

    矛盾が出来る理由は、繋がっていない二つの思考がある為だ。この二つを重ね合わせ、初めて矛盾は起きる。
    矛盾で有名な矛と盾も、頭側の口(空想)と、身体側の実際がある為、矛盾が起きている。頭側の口、どんな矛でも突き破れない盾がある。どんな盾でも突き破る矛がある。だけなら、矛盾は起きない。これだけだと、殆どの人が、この二つは戦っていなく、今のところの成果だ。と受け取ると思う。つまり、頭で勝手な解釈をしてしまっている。こういう勝手な解釈で、実際の物事と違う事は多い。物を買うときで考えると分かり易い。実際を見たら、思い描いていた物と違い、あれ?となり、問い合わせをすれば、確かに説明通りではあり、自分の頭の中で間違った解釈をしてしまっていたが為に、要らない物を買うはめになった人も多いと思う。
    頭側だけで、この矛と盾を戦わせるなら、数値を使う。なので、勝つか負けるか、または、引き分け、しかない。つまり、空想は、飽く迄、空想のままでなければ成立できない。これは、実際側にも言える。
    これを、身体側だけにするなら、実際に戦えば済む。この場合は、計算をしなくても良い。ただ、実際の場合だと、細かい決め事がないと、微妙な差は計れない。例えば、矛は真っ直ぐ突かないといけない。とか、盾は、決して動かしてはいけない。等だ。
    空想と実際を組み合わせる場合、二つを、より近付けないといけない。
    頭側で言えば、状況の計算を入れる。追い風。とか、向かい風。等でも計算は狂う。ただ、計算が狂う状況が多過ぎて計算はし辛いとは思う。
    身体側で言えば、無風のときに矛で突く等する。要は、より空想に近い状況下で決行する。
    ただ、普段こういう使い方はしてはいけない。なぜなら、欠けている事があるからだ。
    地球に、植物と動物がいる。人間の身体に、二つの思考がある。様に、元は、地球だったり、人間の身体だったりする。つまり、考える力など、左右する力が、二つの思考にあるだけで、左右するものは、地球だったり、人間の身体になる。
    つまり、どちらかの思考に合わすのではなく、左右される物を中心に、この二つの思考を使わないといけない。
    もちろん、実際の実力を空想の様な綺麗な状態で試したい。が中心なら、より二つを近付ける必要がある。

    矛盾をもう少し詳しく言うと、A=A。AであってAではない。これは、考えた人も多いと思う。
    でも、これを空想と実際で言えば、この通りの物があると分かる。
    例えば、CGで描いた火の映像。と、実際の火。テレビや映画などで使われているが、似て非なる物ではあるが、火は火である。

    勝手な解釈で言えば、大きな石と小さな石を落とす実験。勝手に大きな石の方が先に落ちると解釈してしまっていたが為に、実際を見て、矛盾が生じた。実際には、同時に落ちてしまうからだ。実際だけだと、いつでも、同時に落ちている訳だから、実際を見て、おかしい、と思う事は一切ない。
    ここで考えて欲しいのが、頭側と身体側が反対になっている。という事。頭で、大きな石と小さな石が同時に落ちるのを解くのは、難しかったと思う。でも、実際にこれをするのは、物凄く簡単である。誰でも出来る。この説明で、頭と実際の思考が違う事は分かると思う。実際の思考と頭の思考が同じなら、実際を見て、おかしいと思う事はない。では、身体側の人は、この実験を見て、理由が簡単に分かるのか。それは簡単で、大きな石も小さな石も、数値で言うと、同じ1になる様に、空気が当たっている。だから、同時に落ちる。

    では、頭側と身体側が反対になっているなら、1+1=2。を、実際にしたら、難しいのかどうか。これは、かなり難しい。
    例えば、リンゴ。同じリンゴを探せと言われれば、なかなか見付からないと思う。模様が少し違っていたり、中の種の位置が違っていたり、糖度が違っていたり、水分の量が違っていたり、まあ難し過ぎる。つまり、1+1=2。にしようと思うと、全く同じリンゴでないと出来ない。そうでないと同じ1にならないから。
    足し算で言うと、数字の位が多くなるほど、難しくなる。実際だとどうなるか。全く同じリンゴを探すのは難しいが、足して同じ数値にするなら、数は多い方が合い易くなる。例えば、1+20=21。なら、1のリンゴを基準に×20の数値になる様に、20個のリンゴを探せば良い。全く同じリンゴを1個探すよりは、楽に探せる。
    例えば、リンゴはリンゴだから、どんな大きさでも、1は1にする。すると、簡単に1+1=2が出来てしまう。でも、実際に、リンゴが四つあり、大きいリンゴが二個。小さなリンゴが二個。それを二人いるから、二個ずつに分ける。一人は、大きいリンゴを二個。もう一人は小さなリンゴを二個。同じ二個でしょ。と言われて納得する人はいないと思う。つまり、矛盾が生じているのが分かると思う。空想では同じ二個かも知れないが、実際では同じ二個になっていない。という事が分かる。
    では、なぜ、1+1=2を頭側で考えると、リンゴはどれでも一個だから、一個。身体側で考えると、リンゴの中の水分や糖度まで含めてしまうのか。それは、1からか100からかの違い。頭側は、自分の要る所しかピックアップしない。でも、身体側は、全てをピックアップする。だから、こういう違いが起こる。例の1+20=21のときも同じ。さっきの1+1=2の様に1の方のリンゴと全く同じリンゴを20個探すんじゃないの?と思うかも知れないが、実際には、同じ分量になっている為、それで合っている。これは、実際に1の方のリンゴを基準に、10個ずつ二人に分ける。身体側の様に全て同じ分量に分けていたら、文句を言う人は誰もいないと思う。それは、全てが同じ、10個分の分量で分けているからだ。つまり、空想と実際を分ければ、矛盾は生じない為、空想は空想で、実際は実際で、計算すれば良い。それは、空想と実際が、繋がっていないから、そうしないといけない。

    ちなみに、お金と物だと、空想はお金。実際は物なので、お金は頭側、物は身体側になる。
    裕福。と言うと、お金持ちで、良い物を持っている。というイメージがある。
    では、お金はあるが持っている物は悪い。と、お金はないが持っている物は良い。なら、どちらが、裕福になるのか。
    言葉を変えると、空想では裕福。実際には裕福。になる。
    実感しているのは、実際なので、実際には裕福。の方が裕福である。
    それなら、ビールより安い、発泡酒を考えた。これは、凄い事かどうか。空想で考えると、今ある物よりいっぱい買える物を考えた。物で考えると、今ある物より悪い物を考えた。になる。
    この場合、現実で考えないといけない。頭側だと、給料がこれ以上どうやっても上がらない為、いっぱい買えるのはありがたい。身体側だと、物が少ない為、どうしても質の悪い物でないと数が作れない。
    空想は、飽く迄空想な為、簡単に左右できる。実際の物は、物が無ければ、どうしようもない。つまり、物があるなら、ビールをいっぱい買える方が、良い事をした。になる。その為、物があるにも拘わらず、空想を基準にしてしまい、悪い物を考えたなら、そいつはただの馬鹿になる。空想を現実化してしまい、実際を悪くしているのだから、当然である。
    ただ、実際よりも空想を基準にした方が、物事は簡単に遂行できる。それは、何度も言っているが、頭側は上辺だからだ。身体側の元をどうにかしようとすると、多大な労力が要る。
    その多大な労力を使わないと、本当の裕福にはなれない。

    一つの事に、表と裏が存在するのは、思考が一つでなく、二つあるからだ。
    考えて欲しいのは、なぜ、二つの思考が要たのか、という点。
    分かるのは、世の中を生きる、または、世の中を解き、発展させるのに、一つの思考だけでは、足りない。その為、対になっている二つの思考が存在しているのだと思う。
    思考が一つだけなら、矛盾が生まれる事もなく、物事は上手く行く。と誰もが思う。でも、一つの思考だけでは、物事を上手く運べない。これは、簡単で、一つの思考にするなら、思考欲を抑えるしかない。つまり、頭側、身体側の様に、思考による偏りを強くせず、どちらも考え易い様に薄くすれば良い。でも、そうすると、欲が生まれない。つまり、良くも悪くも行く事が出来なくなる。
    この二つの思考は、本当に上手く出来ていて、1から100で言うと、頭側は1からで、身体側は100からになっている。でも、そうなると、50の部分が遠くなる。ただ、この50は頂点である。つまり、この1から100は、山形のグラフの様になっており、1も100も横から見ると同じ位置にある。要は、上り始めは同じ位置からになる。
    ここで、思い出して欲しいのが、1から100の縦と、25から75の横(これをグラフに当てはめるときは、1から200にし、頂点を100にする)。つまり、単に頂点で支え合っているだけでなく、その山形グラフの中も、人という漢字の様に、支え合える様になっている。つまり、隙間なく支え合えている。
    その上、この山形グラフは、自分の欲しいところ。自分の力分だけを抜き取る事が出来る。要は、山形のグラフの中は、小さな山形グラフが幾つもあり、全てが支え合っている構造な為、どこからでも、山形グラフの様に抜き取れるようになっている。簡単に言うと、山形グラフの中に、二つの斜めの線が真っ黒になるくらい敷き詰められている。こうなっている理由は簡単で、一人の人で、全てを分かり得る事は出来ない。だから、部分的に抜き取れる様になっているのだと思う。
    ただ、部分的でも、頂点まで行こうとすると、必ず、頭側と身体側とで助け合わないと行けなくはなっている。
    どう助け合うかと言うと、まず、頭側、身体側、どちらがベースのなのか知る必要がある。どちらがベースなのかは、空想なのか実際なのか。や、頭なのか手足なのか。など、頭側、身体側に分けたのを参考にして欲しい。そして、ベース側でない方は、ベースの横側の25から75の部分を、自分側の1から100で助ける。

    頭側は、環境を壊す思考。身体側は、環境に沿った思考

    環境を壊す思考。というのは、環境に逆らう思考であり、本来は、壊れた部分の修復に使う。
    環境に沿った思考は、自然の流れに沿った思考で、自然のまま生きて行く。

    例えば、魚。
    今の人達は、自然の中で魚を増やせない、どころか乱獲を防ぐので精一杯だ。だから、養殖という形を取り、別の場所で魚を増やしている。
    では、自然の中で魚を増やせないのかどうか。もちろん、増やせる。それは、魚達の環境を整えてあげれば良い。
    ただ、頭側の思考からでは、そのやり方が遠くの方にあり、なかなか分からない。だから、頭側の思考で分かり易い、養殖。という方法を、今の人達は取っている。
    だけど、本来、養殖は、何か偶発的な出来事があり、自然の修復だけでは足りない時に使う物である。飽く迄、魚は自然に獲った方が良い。それは、自然の法則で、ある動物は自然から獲るが、ある動物は自然から獲らない。とすると、自然のバランスが崩れる。要は、人が獲らない動物と人とで、獲る動物(獲物)が被ってしまう為、獲る動物が激減する。そうすると、人が獲らない動物は、食べる物が無い為、自然と減ってしまう。この連鎖が拡がると、地球上全体の生き物が減る事になる。そうならない様にするには、自然でのバランスを保つ事が最優先である。それに自然の中で減らす方法もあれば、増やす方法もある。だから、養殖は、飽く迄、自然の回復だけでは難しくなった、修復の為のものになる。

    では、本当に、身体側の思考なら、自然に(養殖という形を取らずに)魚を増やせるのか。
    身体側の思考で魚を増やす場合、養殖と違い、一つの種類だけを増やす事は出来ない。それは、さっき言った様に、連鎖があるからだ。なので、増やすなら、生き物全体を増やす事になる。要は、食べたい物。売れる物だけを特別多く増やす事は出来ない。
    ただ、今の時代の様に、環境を壊す思考で、一つの種類の魚を獲り過ぎていた場合は、別の話になる。
    全体的に増やすというのは、自然のバランスを保ったまま、全体的に増やす、という意味で、当然、減り過ぎている魚は、全体的に増やす前にすでにバランスを保つ分いる魚と比べると、多く増える事になる。
    さっき、一つの種類だけを増やす事は出来ない。と言ったが、手を出せば、出来ない事はない。ただ、身体側は、前に言った様に、意思以外は、任せる。つまり、増やす減らす等、環境を初めに左右すれば、あとは自然に任せるだけで良い。仮に、一つの種類の魚が減り過ぎたとしても、全てを自然に任せるなら、手を出さなくても長い時間を掛けて元に戻る様にはなっている。要は数が少ない訳だから、身を隠したり、その種類の魚を食べていた魚などは、他の獲物を狙う様になる。だから、ある程度なら、放っておくだけで、自然と増える。ただ、人間が自然から、獲物を捕る以上、これは出来ない。つまり、大脳の思考を使っている人間は環境を壊す思考な為、自然の流れによる摂取ができない。なので、自然と増えるのは、古い脳の思考を使っている人間含め、動植物だけの場合になる。
    身体側の思考で一つの種類の魚を増やす場合、他の種類の魚の身を削り、減り過ぎた魚を増やす方法がある。要は、減り過ぎた魚を獲物としている魚を減らす。また、その減り過ぎた魚を獲物としている魚を細かく切り、減り過ぎている魚に与える。要は、バランスが崩れたなら、人が手を出す事でバランスを保てば良い。簡単に言うと、全体で1110の動物がいる。本来なら、大きな動物10、中型の動物100、小さな動物1000で、1対10対100という感じでバランスを保っていた。でも、大きな動物50、中型の動物60、小さな動物1000と、大きな動物が多く、中型の動物が少なくなってしまった。それなら、大きな動物を一時、6にする。すると、大きな動物と中型の動物のバランスは保てる。そうすると、小さな動物は食べられる数が減る為、一時増えるが、中型の動物は、それを糧にバランス分、増える事が出来る。でも、このバランスは、大きな動物を44減らしたバランスなので、全体的には、1110から44を引いた、1066のバランスになる。それでは、全体的に減ってしまう為、大きな動物を細かくし、小さな動物に与える。すると、全体的にも1110と元に戻れる。このとき、中型の動物には与えないのか?一つは、自分を獲物にしていた動物という事もあり、臭いで嫌うとは思う。もう一つは、中型の動物と小さな動物のバランス。中型の動物の方が少ないので、食べ物はもう腐るほどある、だから要らない。なので、小さな動物に与えるのが妥当となる。
    この説明だけでは、どうして、全体が1110のバランスのままになるのか分からないと思う。それは、環境が1110の環境だからだ。簡単に言うと、市場が1110。または、人が1110しか入らない建物。という感じ。例えば、お金を1110枚で回す。誰かが44枚破ったら、その分は世の中に回らない。だから、世の中に回る分は1110から、1066となる。でも、その破った44枚を元に戻したら、また、1110で回せる。この44枚破り世の中に回せなくした、というのが頭側の環境を壊す思考。始めの例の44頭分、形は変えたが中身はそのまま世の中に回した、というのが身体側の環境に沿った思考。(この動物の例では、頭側の人に分かり易い様、空想の数字を基準にしている為、実際には、この様にはならない。)これを見たら、世の中のお金も同じ様にすれば、全体的に増やせる。と思う人もいると思う。それが、量的金融緩和だ。確かにお金の量は増える。ただ、単純にそうはいかない。もうちょっと詳しくは勉強のページを見て欲しい。
    他にも一つの種類だけを増やす方法はある。それは、その種類に適した環境の場所を見付け、そこに移す。これは、本来その島などにいない動物、外来種が増えてしまった。という事があると思う。それと同じやり方。でも、そうすると、その島に生息している動物が減る。それは、それで、また、その動物を移すしかない。ただ、その適した環境の島などを空想(頭側の思考)で作るという手もある。

    ただ、今の時代で減らし過ぎた種類の動植物は、環境を壊す思考で修復しないといけない。
    やり方は、養殖。他には、さっき言った、適した環境を作る。
    ただ、養殖は、自然に任せる事が出来ない為、ずっと、手を出さなければいけない。
    でも、身体側が手を出せば、別の話になる。それが、適した環境を空想で作る。そうすれば、意図的に増やした獲物を獲る、というのと、その獲物分の獲物の獲物のを入れる。という事以外、殆ど手を付けなくて済む。要は、手入れしなくても、勝手に自然の流れに沿って増えてくれる。
    これを見て分かる様に、ベースは頭側のままである。養殖場を作り、そこで育てたい魚を育てる。身体側は、その養殖場を、自然の姿、に変えただけ。
    要は、頭側がベースの物事なら、頭側の縦1から100と、横25から75を掛け合わせる事で、完璧な頭側ベースの物事が出来る。身体側がベースの場合も同じ。身体側の縦1から100と、横25から75を掛け合わせる事で、完璧な身体側ベースの物事が出来る。
    もちろん、養殖場を自然の環境の様にした。というだけで終わりでは無い。頭側と身体側の掛け合わせは、延々と続く。

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  • 行動に起こす場合、頭側は後攻。身体側は先行

    頭側は、計画を立ててから、行動に出る。頭側は空想な訳だから、実際でなく、計画を立てるときに、完璧にする。
    身体側は、力を付けてから行動に出る為、行動に出た後は、その力が物を言う。もちろん、その力次第で、事が成せるかどうか決まる。要は、シミュレーションをしない。それは、実際に行動に移すと、シミュレーションの様に行かないからだ。シミュレーションをした所で、殆ど、その通りに行かない。
    理由は、空想の様な、綺麗な実際が無いからだ。
    前に、空想と実際を掛け合わせると、矛盾が生まれる。と言ったが、どんな盾でも突き通せる矛がある。この言葉は、実際では通用するが、空想では、通用しない。数字にすると簡単に分かる。どんな盾でも突き通せる矛の数値を出し、それよりも高い数値の盾を作れば良い。空想なら、簡単に作れる。だから、通用しない。だけど、実際に、その盾を作ろうとすると、難しい。つまり、空想の盾を実際に作ろうにも、実際で作れる技術がないと作れない。
    まあ、僕が考えると、実際に近くはなるが、例えば、鉄の矛なら錆びさせる盾を作る。ダイヤの矛なら、ダイヤを削る盾を作る。鋭さを無くす様に、突いたときだけ削れる形状にすれば、丸くなった矛になる為、その矛は弱くなる。空想なら、簡単に考えられる。
    では、宇宙まで行けているのは、なぜか。
    それは、簡単で、失敗を繰り返し、成功させているからだ。要は、実際の技術を上げている。
    では、やっぱり、身体側は要らないのか。
    考えて欲しいのは、その上げた技術力。これは、空想に合わせてしか上げていない。逆に言うと、空想に合わせた以上の技術は身に付けられていない。だから、空想で思い付かなかった出来事が起こると、もろく崩れ去る。
    逆に言うと、空想で考えた事は、一応、出来ている。だから、身体側は要らないと、思わせてしまう。
    でも、現実を見れば、それで良いのか簡単に分かる。
    日本人なら、誰でも知っている原発。人間が操りきれていない。とも言われている。この文章からも分かる様に、空想通り作った、までの技術しかない為、操る事が出来ていない。
    ちなみに、失敗は成功の元。というのは、行動で言えば、身体側の言葉で、頭側の言葉で無い。頭側は、この反対で、一度の失敗も許されない。それは、計画段階での失敗は許されるからだ。簡単に言うと、卒業式など、校長先生が皆の前で話すときの失敗は許されない。でも、皆に話す前の下書き段階なら失敗は許される。身体側は、その逆で、行動に移す前の前準備の失敗は許されない。例えば、体力が要る仕事なのに、体力を付けて来なければ、何の役にも立たない。つまり、出来る事をしてこない失敗は許されない。ただ、本番になると、難しい作業を強いられる為、多少の失敗は許される。昔で言えば、ラーメン店で、スープが上手く出来上がらず、店を開けない、等あった。いつでも、自分が納得できる味が出せるとは限らない。これは、拘りが強ければ強い程、難しくなる為、失敗はしてしまう。
    要は、頭側は計画が主。身体側は、行動が主。で、そこで物事を左右する。
    身体側が先行なのは、物事は大体、実際を観察してから、計画を立てると思う。その観察をするには、実際を知らないと出来ない。その際、実際を生きる能力のある身体側が動くのが一番良い。その後、頭側が計画を立てる。計画通りに行動できるのは、行動が主の身体側、となる。行動を主にしている身体側だけでも、行動を元にある程度の計画は立てられる。その上、最後の仕上げも、身体側になる。
    つまり、どちらも、自分側だけで良いと思ってしまう力はある。ただ、これはただの過信である。

    頭側は、新しい事に興味を持ち、出来る物事を増やして行く。身体側は、今ある事、出来る事に興味を持ち、物事を研ぎ澄まして行く

    これは、発展する形で、頭側は、新しい物事を見付ける事に長けている。身体側は、今を良くする事に長けている。
    何事でもそうだが、もちろん、悪い面もある。
    頭側で言うと、新しい事にばっかり目が行き、地盤というか、足元を把握できない。例えば、ABCという三つの土地がある。そのうちBとCは土地の使い方が悪く駄目にした。すると、DとEという新しい土地を探し出し、BとCの代わりにする。差し引きすれば、元通りにはなる。でも、BとCの土地は、悪いまま、放っておいてしまう。それは、新しい土地が見付かった為、今すぐ、何かしなくても良いからだ。
    身体側だと、新しい事に取り組まなくなる。それは、現状をより良く出来るからだ。さっきの例で言うと、BとCの土地を駄目にしても、復活させられる。それは、実際を基準に生きている為、無理をしないからだ。簡単に言うと、空想というのは、実際とかけ離れている。その為、実際に空想を実現させてしまうと、無理が出る。要は、実現はさせられても、それを操る事が出来ない。それは、行動の場合、知る事が出来るのは後になるからだ。要は空想を実現させられる実力と、操る実力は比例していない。なぜそうなるかは、後で書く。要は、身体側は、自分の実力の段階を踏んでいる為、無理がない。100先をしろ。と言われても出来ないが一つ先なら、大抵は出来る。つまり、身体側は細か過ぎる、がある為、進む先は、一つ先の拘りになってしまう。なので、操る事が出来るのと、新しい物事を無理して取り込まなくても、今で充実、満足できる。だから、現状を保ってしまう。
    簡単に言うと、頭側は、次々に趣味を広げるのは良いが、実力が乏しい為、努力するのを止め、すぐ止める。なので、何も身に付いていない状態。家には、ガラクタになった物が多くある感じだ。身体側で言うと、新しい事に興味を持たない為、日常での変化点が少なく、どこか寂しい現実を送る事になる。まあ、どちらも本人にとっては満足ではあるだろう。
    この二つが組めばどうなるか。頭側は、現状をどうにかするのが苦手な為、新しい物事をどんどん発見して取り入れる。身体側は、発見した程度の実力では、満足できない為、それを良くしようとする。そうして初めて、世の中は、発展して行ける。

    現在だと、頭で考えた通りに行かなければ、その事は中止にしなければいけない。これは、殆どの人がそう思っている。それは、頭側が計画を主としているからで、計画段階に戻り、練り直す為だ。
    でも、身体側は、行動を主としている為、自分の手持ちから、成功に導かないといけない。要は、行動に出た以上、考え付く限り、出来る限りの事はする。その中では、もちろん、空想では思い付かない事もする。それが出来ないと、身体側の意味は、もちろん、無い。ただ、今の時代でそれをすると、逆に怒られる。それは、頭に無い事だから、怒られる。要は、頭で考えられない事は、上手く行かないのが当たり前。と勝手に頭側が思っている。
    ただ、誰でも、頭で描いた通りに行かない事は知っている。ときには、現場での臨機応変な対応を求めてもいる。ただ、それには、頭にある内容、大脳の思考にある内容でないといけない、という事が前提になっている。でも、実際に自分の頭に思い浮かばなかった事でも上手く行っている事はある。でも、それは、同じ大脳の思考にある考えだと勝手に勘違いしている。つまり、本能や実際に出来る事が、大脳の思考と同じ流れの思考だと勘違いしている。
    よく考えれば分かると思うが、一つの同じ流れの思考で、矛盾が起こるはずが無い。どこかが抜けているとか、そこまで考えられる頭がないだけ、というくらいにしかならない。でも、頭側は、細かいの一つしか無い為、全部が同じ様に見えてしまう。なので、発達障害の診断でも、あいまいになってしまう。それは、普通に考えて診断を出来るはずが無い。だって、元を見られないんだから。1から100で言うと、頭側は50を見ている。1と100を見られれば、診断できるだろうが、50だけだと、頭側も身体側も同じにしか見えない。だって同じ50なんだから。この様に頭側は、実際も空想も同じ思考の様に見えている。もちろん、この能力自体は世の中では要る能力ではある。何回も言うが、メリットもあれば、デメリットもある。でも、これは二つに分けるやり方なので、その力は頭側の思考にはない。

    もちろん、実際側には実際側のやり方がある。
    頭は計画段階に主を置き、身体側は行動段階に主を置く。と言ったのを思い出しながら読んで欲しい。
    空想で描いた通りだと、いつでも出来る事。として捕らえる。要は車の様に誰でも乗れてその力がある程度、発揮できる感じ。でも、その場しのぎだと、その場一回しか出来ない。という考えがある。要は、確定ではない、という考え。でも、身体側からすると、その上手く行ったやり方が、式となる。要は、考え試す。で一つなので、実際、試して上手くいった事が、答え、になる。
    もちろん、身体側の定義もある。一回だけだと、偶々。二回だと、出来る。三回だと確実。この考え自体は、大まかの部分で、言葉を発するときも同じ。一回だけだと、嘘の場合もある。二回だと本当。三回だと絶対に本当。となる感じ。ただ、身体側は、人によって、多少異なる。この場合だと、四回だと本当で、五回だと絶対に本当。という人もいる。
    ただ、厄介なのは、考えが、一つずつしか出て来ない。というところ。
    頭側なら、一からな為、ある程度考えた後、考えを纏めて、一つの答えを出すのが普通になる。要は、目的の所まで考えられれば終わり、という感じ。
    身体側は、100から出てくる為に、一番重要と思う所から出てくる。だから、それで終わりと思いがちだが、そこからが始まりである。要は、初めに大まかな部分が出たり、考えるベースが出る。その上、終点が分かり難い。これは、身体を鍛える。で考えると良く分かる。限界は誰にも分からない。それに、身体側の会話の仕方でも言ったが、考えは出すだけなので、纏める事をしない。なので、余計に終点が分かり辛い。
    身体側が纏めない理由は簡単で、纏めた所で、実際、には通用しない。シミュレーション通りに殆どいかない、というのと同じ。空想だから纏められる。空想が纏まっていなかったら、何が何だか分からなくなる。例えば、フィクションの小説の文章をバラバラにしたら、読む途中でオチが出て来たりと、おそらく全く面白くない。でも、実際の場合、簡易な人間のロボットを組み立てる部品、頭、手、足など、バラバラにしてあってもある程度分かる為、簡単に組み立てられる。ただ、人間自体を知らないと組み立てるのは難しい。それは、完成図が分からないからだ。だから初めに100を知る。100が纏めにもなる為、纏める事はしない。
    身体側の考え方も、今のロボットの例と同じ。頭とか手とか足など、ある程度まで考える必要はある。もちろん、ロボットになるまで考えた方が良い。でも、そこは、自分の力次第、自分の納得次第である。もちろん、そのロボットより凄いロボットを考えても良い。大抵は、自分が納得するまで考える。逆に自分が納得すれば、考えは殆ど出て来ない。ややこしいが、この自分というのは、身体側の方なので、頭側、大脳の方の自分では無い。なので、大脳では考え終ったと思っていても、身体側では、まだ考えている事も凄く多い。その逆もあり、考えていない事もあるが、この場合、何かが足りない、とか、頭側でないと考えられない、とかある。要は、大脳と古い脳は繋がっていなく、別々にある為、別々で動いている。

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  • 頭側と身体側の優先順位

    物事には、必ず表と裏がある。と言ったが、それだけでなく、物事には、必ず、頭側と身体側が存在している。
    例えば、食べ物の摂取。身体側は二択なので、満腹か空腹か。頭側は平均なので、栄養のバランスになる。
    食べ物の摂取は、ただ単に食べれば良い訳ではなく、満腹量は大体決まっている為、栄養のバランスを考えて摂取しないといけない。摂取した後に、この栄養を食べておけば良かった。となっても、満腹ならもう食べられない為、これは、先に計算しなければいけない。
    食べ物の摂取は、身体側の事なので、ベースは身体側。食べ物の摂取は、食べないと意味が無い。だから、身体側の満腹か空腹かが先になる。次に頭側の平均的に取る、栄養のバランス。となる。
    食べ物の摂取は、身体側の事なので、頭側と身体側に簡単に分けられる。
    でも、頭側の物を、頭側、身体側に分ける場合、まず、元を探さないといけない。それは、トーナメント表で言うと、下の細かく分けた所が出ている事が多いからだ。
    例えば、足し算引き算。足し算だけだと、頭側と身体側には分けられない。でも、足し算と引き算なら、足すと引くで、身体側の二択になる。頭側は、その足したり引いたりする数値。数値の中身は、リンゴだったり、車だったり、色々ある。このときの平均は、数値。大きさ関係なく、一個は一個な為、そこが平均になっている。
    足し算引き算は、頭側がベースな為、まず、足し引きする数値が必要になる。その次に、身体側の足し引きの二択が来る。
    つまり、頭側がベースなら、頭側が先に来て、次に身体側が来る。身体側がベースなら、身体側が先に来て、次に頭側が来る。

    これは、何事でも、人間を使うときでも同じ。
    人間で言うと、頭側は外。身体側は内。
    口に出すときは、人間の外に出すので、頭側になる。時々、喋ろうと思っていた事が、いざとなると、喋る内容が出て来なくなる事があると思う。そのとき、身体側が勝手に口を動かす事がある。まあ、これを実感できる人は、今は殆どいないと思う。
    身体側が、頭側の口を使って、相手の身体側に働き掛ける場合、頭側を通って身体側まで行かす為、言葉的には強い言葉が要る。なので、身体側は、印象強い言葉使いをする。例えば、相手の嫌がる事を言い、相手に感情を抱かせる、など。
    これは、頭側と身体側が繋がっていて、身体側まで届いている訳では無い。相手が、頭側で受け取ったときに、身体側の方が強く反応した為に、身体側まで届いただけ。つまり、強く反応した方が優先される。
    前に、山形グラフで説明をしたが、それなら、上の方で繋がっている事になる。ただ、それは平面で見た場合。立体にして、横側から見ると、その二つは重なってはいない。これは、頭側からすると、頭側と身体側が無く現実一つのみの様に見えるが、身体側から見るとはっきりと、頭側と身体側二つに別れているのが分かるのと、同じ理屈。
    身体を使う場合、疲れれば疲れる程、無駄な動きをしないのが分かる。それは、身体が疲れて来て、頭側の方が上回ったが為に、頭側が出て来ている。例えば、UFOキャッチャーを手でする場合、力があるなら、強引に掴む。でも、力が無いなら、頭で取り易い所を探り、取る。これと同じ事になっている為、身体が疲れているときは、無駄な動きをしない様になっている。

    頭側は植物側。身体側は動物側

    植物を育てるとき、平均的に育てないといけない。一日放ったらかしにしておくと、植物はぐれる。なので、身体側には、ちょっと育て難い。
    動物は、ある程度、放ったらかしでも勝手に育つ。要は環境さえ整えておけば、後は勝手に本能で育ってくれる。
    植物の場合、人間が手入れしないと、上手い事育たない。というのは誰でも知っていると思う。でも、動物の場合、手を出さないと育たない。というのは、聞いた事が無いと思う。
    これは、頭側、身体側の人間を育てるときも似た様な事になる。
    頭側は、学校を作り、一から教育をしている。本当に手が込んでいる。
    身体側の場合、子供は放っておいても育つ。という言葉通り、環境に合わせ育つ。簡単に言うと、獅子は我が子を千尋の谷に落とす。子供がはい上がって来るときには、勝手に育っている。身体側の子供はそうやって育てる。ただ、勘違いしないで欲しい。動物は、環境を整えて上げれば勝手に育つ。という事。つまり、環境を整えもせず、見捨てた感じで放っておくのは、間違い。
    どういう事かと言うと、まず、勉強の仕方が違う。身体側は体験で物事を知る。それに対し、頭側は、頭で覚え、物事を知る。だから、頭側は日々頭で勉強をする。
    身体側は、体験で知る為、その体験を取ってしまうと育たなくなる。かと言って、いきなり世の中に放り出して生きて行ける訳では無い。それは、世の中は、1から100まで、全部出るからだ。

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  • 頭側は1からの思考。身体側は100からの思考。世の中は1から100

    世の中は、何が起こるか分からない。それは、1から100まであるとして、どれでも出るからだ。
    前に、地球があり、植物。動物がいる。人間がいて、頭側、身体側がある。物事に対し、頭側、身体側を使う。と言ったのと同じ。地球や人間が、世の中の1から100という事。

    簡単に言うと、身体側は、100から育てて上げないといけない。100からというのは、いきなり体験から入る。という事。これを山形グラフに当てはめると、頂点が実践になる。頭側なら、頭に知識を入れた後、実戦に入る。
    身体側なら、実際に手足に実力を付け、その行動できる力を持って実践に向かう。だから、育てるのに、実践の様な整えた環境が要る。
    これを実際で言うと、例えば、窓拭き。窓を用意し、拭く物と洗剤を渡す。前にも言ったが、身体側は手持ちから考え、成功させる。あとは、人がしているのを見て、それを真似させる。人がしているのと、自分がしているのを見る。そこで、自分が納得すれば、成長は止まる。納得できなければ、自分で考え、成長できる。整えた環境は、汚い窓と拭く物、洗剤。そして、実力のある人が実行している姿、もしくは、やり終わった後の窓。ただ、これだけだと、頑張る必要があるかと言うと、ない。なので、自分が納得する度合いの幅は大きい。これは、性格による。では、何が足りないのか。それは、競争という環境。子供が二人の場合、どちらが綺麗に出来るかな。と言えば、子供は、競争する。そうやって、自分の拘りを作って行く。
    ただ、身体側は、環境に沿った思考である。という事。つまり、環境が悪ければ、ちゃんと育たない。だから、環境を壊す思考の頭側では、身体側の人間を育てるのが難しい。それは、頭側に良い事は、身体側には悪い。つまり、頭側が作った良い環境は、身体側には一番ちゃんと育たない環境である。もちろん、逆も言える。
    ただ、人間である以上、両方を組み合さないといけない。これは、半々で良い。どうせ、自分の頭側、身体側の才能により、受け取る量が違う。なので、それで、良い感じに育つ。例えば、頭側100身体側50の才能の人がいるとする。100ずつ教えると、才能通りに育つが、これを、才能に合わせ、頭側100身体側50で教える。すると、受け取る量が違う為、身体側は、25しか育たない。元々才能の差で、身体側は全体の半分しか受け取れない人なので、そうなる。

    頭側の拘り。身体側の拘り

    頭側は計画段階で拘りを見せる。
    身体側は、実践で拘りを見せる。
    だけど、頭側は実践では手を抜く。手抜き工事なども計画的に手を抜いている。つまり、手を抜く計画には手を抜いていない。だけど、実践だと、妥協が当たり前になっている。新しいバケツ、ゴミ箱などをホームセンターで見ると、汚いのは当たり前である。とても新しい売り物。とは言えない。空想で新しい売り物とはどういうものかを描いてから、それらを見れば、一目瞭然でおかしいのが分かる。
    身体側は、計画に手を抜く。試して成功を得る身体側は、先の計画を練るのが苦手と言うのもあり、計画は適当に立てる。逆に言えば、手足側で腕があるから、計画に手を抜くとも言える。ただ、何回も言うが、片方の思考だけでは、実力の底は知れている。
    頭側は、空想を描く。なので、車やバイクなどを作るのに、頭の計画通りに出来ているようで、実際には、どこか狂っている。だから、妥協点があいまいだがある。しかも、車一つでも、妥協点はいっぱいある。だから、今の車は妥協の塊ではある。
    実際で、空想で描いた綺麗な形の位置に物が付いていても、何か問題があるなら、それは、綺麗な形では無い。どういう事かと言うと、実際には、実際の綺麗な形がある。簡単に言うと、積み木。一つ一つ空想通りに綺麗に出来ているかと言うと、そうでは無い。その偏りが一つ所に集まれば、積み木を上に積み上げたとき、傾いているのが分かる。ちりも積もれば、という感じだ。だけど、それを、上手い事、積み上げれば、ちりが積もっても、綺麗に真っ直ぐ上に積み上げる事が出来る。この積み方が、実際の綺麗な形になる。これが、身体側の拘りだが、本来は、積み木一つ一つを空想通りに綺麗に作る。なぜなら、問題は、そこで解けるから。身体側は前にも言ったが、元から何とかする。もちろん、元を探し出すのも得意。だから、積み木の例の様に小手先でも何とかは出来るが、それは、飽く迄応急処置である。要は、元が悪いのに、小手先で何とかはしてはいけない。物作りをしている人なら分かると思うが、元の物が悪いとどうにもならない。
    つまり、空想通りに物を、実際で作りたかったら、身体側の拘りがないと出来ない。

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  • 情報の仕入れ方

    身体側は、察知、感知を使う。察知、感知と言っているが、実際は、動き、溜めた情報。ただ教えて貰っているから分かるだけ。例えば、普通の人は口に出す前に、思いで言う。それに対し、身体側は、思いを聞くので、口で言われる前に行動で示す。だから、察知。溜めた情報の一つは、他人から貰う情報で、大脳が乗っ取られている、という奴。そこから、自分の身体に情報を溜める。知りたい情報を取り出すには、知りたい事の質問を古い脳(身体)に投げかける。すると、古い脳(身体)が勝手に集計したり、答えを引き出してくれる。答えが出たら、それを頭に出してくれる。すぐ出ない場合は、何かをきっかけに、答えを頭に出してくれる。答えが出ない場合は、徐々に解いて行ったり、まあ、放ったらかしになるときもある。が、自分の大脳で気にしているなら、それを古い脳に言えば、何かは言ってくれる。例えば、分からない、とか、情報が足りない、とかだ。ただ、これは、きっかけに過ぎない為、信用出来ない程度で良い。これが感知。実際に感知通りなのかは、実際をちゃんと調べれば分かる。要は、どこを調べるかのきっかけ掴みの様な物。
    頭側は、クチコミとか、本とか、テレビなど、外に出す物になる。